2014年9月2日火曜日

IV. オスマンのパリ大改造と諷刺(4)

マカダム舗装の埃
 次はもうひとつのテーマ、埃を見てみよう。図版8(『シャリヴァリ』1850年6月28日号)では、マカダム舗装によって舞い上がる埃で服が真っ白になってしまった男が「ブールヴァールを散歩してごらんなさいな、こんなもんじゃありませんよ」と言っているが、ドーミエはブルジョワの服装の定番といってもよい黒服に降り積もる白い埃をモノトーンの対比でうまく描いている。このすごい埃は右奥に見られるように通りの見通しもきかなくなるほどあたりに舞い上がっているのである。
図版8

 こうなれば交通の危険も増すというわけで、ドーミエの想像力は新たな規制を生み出す。図版9(『シャリヴァリ』1850年7月19日号)のキャプションには「警視総監の新たな政令ー事故を防止するために馬車と騎馬は今後、マカダム舗装されたブールヴァールを通る場合は、接近を歩行者に知らせる大型の鈴を装備しなくてはならない」とある。すでに見たように大通りの交通量が急激に増え、横断するだけでも「中央アフリカの人喰い人種のなかを探検するよりももっと危険な企て」だった。版画にも見られるように、埃で先の見えないなかを大きな鈴をつけた馬車や騎馬がひっきりなしに通行している。
図版9

 さきほど竹馬で打撃を受けたかわいそうなガレット屋の主人は、埃によってさらに追い打ちをかけられる。彼は、隣の店の人たちと同様に、店先に並べたガレットに降り積もる埃を始終叩いていなければならなくなってしまう。(図版10、『シャリヴァリ』1850年7月11日号)
図版10

 この埃についてのドーミエの空想はとどまるところを知らず、ブールヴァールの生活環境の悪化が悲劇をもたらすというところまでいってしまう。図版11(『シャリヴァリ』1850年7月12日号)はマカダム舗装の結果を描いたもので、6か月後にはブールヴァール沿道の家主たちを絶望させるだろう、というのである。版画の中央には、為す術なしと腕組みしたり、どうしていいかわからず頭をかきむしったりする家主が描かれている。なぜかというと、建物のいたるところに「貸しアパート」だの「貸し店舗」だのと書かれた貼り紙が貼られていることからもわかるように、埃がひどくて店舗は立退き、借家人は逃げていってしまったのである。右上には、絶望のあまり飛び降り自殺をはかった家主までが見える。
図版11

 このようにマカダム舗装は、馬車や騎馬の快適な走行、騒音軽減、メンテナンスのしやすさ、というメリットがある一方で、埃や泥というデメリットもあった。最後にこの舗道のありさまをオスマンはどう見ていたのかを、簡単に記しておこう。セーヌ県知事オスマンは1860年にパリ市議会に宛てて送った1861年度予算に関する覚書のなかでこの問題に触れている。

オスマンの提案
 オスマンは、街路の舗道のやり方がパリの交通量の増大、とくに重量車の激増などの現状にあわなくなってきた点を指摘したうえで、砂岩や斑岩を使った舗装、急速に数を増やしているマカダム舗装、そしてアスファルト舗装など、さまざまな舗装方法を比較衡量している。オスマンは(すでに上で挙げたような)マカダム舗装の利点と、埃や泥などの健康面の問題と経済的なデメリットを挙げている。彼によれば、従来の砂岩の舗装では1平方メートルにつき年間48サンチームの維持費用で済むものが、マカダム舗装では1平方メートル年間3フランと、砂岩の6倍の費用がかかる点を強調している。

 そこで彼が推しているのはアスファルト舗装である。彼によれば、この方法は初期費用がかかるものの、維持費用があまりかからない。さらに埃や泥を出さないから、表面を洗浄するだけで清潔に保つことができることを指摘している。しかし一方で、アスファルト舗装は馬車がスピードを出すと、車が滑りやすい。またアスファルトは圧力をかけて薄く延ばせる性質を持っているために、車の通行によって摩耗しやすいという欠点も明らかにしている。この覚書でオスマンは、最終的にはアスファルト舗装を好ましいと考えているが、解決すべき問題もあり、これからの検討課題だと、慎重な姿勢を崩していない。
 以上のように19世紀の都市において道路の舗装は改善されつつあったものの、多くの課題を残していた。マカダム舗装の諷刺は、この舗道問題解決をめざす試行錯誤と深く結びてついていた。

[この項追わり]

IV. オスマンのパリ大改造と諷刺(3)

 最後に、19世紀中葉のパリの舗道にかんする諷刺画を見てみたい。パリの舗道を改良する試みは、オスマンの計画のなかで始まったものではないが、首都の街路整備と平行して進められたものであり、パリ大改造と深く結びついている。

 パリの舗道は長らく23cm角の砂岩を敷き詰めてできていた。しかし19世紀前半には産業の発展、人口の都市流入によって、それまでになかったさざまな不都合が生じてくる。まず第一に交通量の増大や道路に負荷のかかる重量車の通過のせいで、敷石の痛みが激しくなった。敷石のメンテナンスには費用がかかり、また維持には熟練した技術者が必要だったのである。第二に、石を敷き詰めた道路はでこぼこになっているために、馬車や荷車に負担がかかった。振動によって車の傷みが早まるだけでなく、ゴムタイヤやショックアブソーバーのない馬車は乗客にとって快適ではなかった。またスピードを求める時代が来ているにもかかわらず、馬車は速度を上げることができなかった。さらに馬車の振動は騒音をまき散らし、沿道の住民の不満を募らせていた。

マカダム舗装
 その解決法のひとつとして採用されたのがマカダム舗装 macadamisage だった。この舗装は1815年にイギリス人のジョン・マカダム John McAdam が考案したもので、フランスには1820〜30年代に導入された。さらに都市に使われるようになるには1840年代を待たなくてはならなかった。1855年の万国博覧会のときのシャンゼリゼ大通りを描いた図版を見ると、上流階級の馬車が、マカダム舗装された「産業宮」の前を疾駆している様子がよくわかる。(図版1、ドロワ「シャンゼリゼ大通りと産業宮の入口、1855年の万国博覧会」)
図版1

 マカダム舗装とは、粒の大きい砕石を道の基礎部分に敷き、その空隙を埋めるような小さい粒の砕石をうえに重ね、最後に非常に細かい砂を敷き詰めてローラーで固める方法である。マカダム舗装のメリットは、まず表面が均一なので、敷石のような部分的損耗がすくないこと、水分を吸収しない性質を持っているので、舗装の基礎部分の強度が落ちないこと、敷石とちがって路面に弾性があるので道路と車両の傷みが少ないことが挙げられる。また舗道のメンテナンスには多くの人的資源が必要だが、敷石の場合のような専門技術が必要はない。

 利用者の側から見ると、車のがたつきが減少し、スピードも出せるので、快適な移動が可能になる。それと同時に、振動による騒音も減るので、沿道住民にとってもメリットは大きかった。しかし一方で、マカダム舗装は水を浸透させにくいので、水はけが悪く、雨が降ると道は泥だらけになり、乾燥すると埃がひどくなった。ドーミエなどの諷刺画家がマカダム舗装を標的にしたのはこの点である。

マカダム舗装の泥
 まず、泥から見てみよう。図版2はドーミエが1854年12月28日号の『シャリヴァリ』に発表したものだ。おしゃれに着飾ったパリのブルジョワたちが泥だらけの道を横断している様子が描かれている。面白いのは、3人とも靴を汚さないように苦労して足を前に出している。しかし、むしろ楽しそうにダンスのステップを踏んでいるかのように見えてしまう。キャプションには「パリジャンたちはだんだんマカダム舗装のメリットを認めるようになってきている」とあるように、版画はこの強いられたダンスを皮肉っているのである。

図版2

 泥のなかを歩けば、靴やズボンの裾が汚れる。図版3(『シャリヴァリ』1854年1月27日号)はそれに向けた諷刺である。「ブールヴァールにて―イギリス人がマカダム舗装を発明した理由がいまになって納得できたぞ。靴墨をじゃんじゃん買わせようってことにちがいない」。英国人の陰謀というわけである。
図版3


 またギュスターヴ・ドレにも同じテーマの版画がある。彼は、人物とぬかるんだ街路を黒いシルエット、横殴りの雨をハッチングで描くというシンプルな方法で描いていて、泥と雨が見事に表現している。(図版4,『お笑い新聞』1853年1月8日号)

図版4



パリの泥
 しかし、パリの泥はなにもマカダム舗装に始まったものではない。ルイ・レオポルド・ボワイイが1803年から1804年ころに描いた「にわか雨―通ったら御払いください」(図版5)にもすでにパリの泥は見られる。雨が降るとパリの街路は一面泥の川になってしまう。そこで、歩道と歩道のあいだに車輪のついた板を渡し、有料でそこをわたらせる商売が生まれた。正面の夫婦と子どもと女中が利用しているのはそれである。また右奥には女性を担いでいる男が描かれているが、これは板を使わない手っ取り早いもうひとつの商売である。

図版5

 文学のなかにも、1819年あたりのパリを舞台にしたバルザックの『ゴリオ爺さん』に印象的な泥が出てくる。野望に燃える主人公のラスティニャックはおしゃれをしてレストー夫人の邸宅に徒歩で向かう。馬車を持っていない彼は「靴を泥で汚さないように細心の注意をはらいながら歩いていた」のだが、レストー夫人にどんな気の利いた話をしようかと夢中になり「つい泥をはねあげてしまったので、パレ・ロワイヤル広場で靴を磨かせ、ズボンにブラシをかけさせないわけにはいかなくなった」。また彼の人生の指南役であるヴォートランは、若者にアドバイスをするとき、「パリの泥」を引き合いに出している。ラスティニャックが「それにしてもあなたがたのパリという街はまるで泥沼ですね」というと、ヴォートランは「おまけに奇妙な泥沼だよ(…)その泥沼を馬車で乗りまわせば紳士、歩いて泥だらけになるやつは悪人ということになっているのだからな」(高山鉄男訳)と、パリの泥を比喩にまで使っている。雨が降った首都が泥だらけになるのは、道路の舗装方法の問題ではなく、むしろ下水処理システムがうまく機能していなかったせいである。
 さて、ドーミエは、マカダム舗装の泥を避けるすばらしい方法を提案している。それは竹馬である。見てのとおり、パリの人々は雨の日に、マカダム舗装をしたブールヴァールを歩きまわる快適な方法を発見した、というわけだ。(図版6、『シャリヴァリ』1850年6月29日号)

図版6

 しかし、ここからドーミエの空想はさらに広がる。竹馬という交通手段が思わぬ問題を引き起こすのである。図版7にあるように(『シャリヴァリ』1850年7月11日号)、人々があまりに背の高い竹馬を使って上を歩くものだから、通りの店に客が立ち寄らなくなり、ブールヴァールの商売があがったりになってしまうのだ。図版では「マカダム・システム」と高札の立てられた大通りに面したお菓子屋の店主が浮かぬ顔をして、舗道のはるか上を歩く人々を見上げている。

図版7
(この項続くそ

2014年8月29日金曜日

IV. 「オスマンのパリ大改造と諷刺」(2)

街並みの破壊
 工事による市街の破壊と混乱は、この2例にとどまらない。オスマンによる道路整備では、まず公共事業に必要な道路と沿道の土地を収用し、つぎに道路整備を行い、そして付加価値がついて値上がりした沿道の土地を再売却するか、そこに建物を建設するという方式をとった。つまり、日本の80年代によく行われたように、開発利益を次の事業に投資するいわば「自転車操業」だった。こうした開発で、諷刺画にはみるも無残に壊されていく沿道の建物が描かれていく。

 ここで思い出されるのは、ゾラの『獲物の分け前』で描かれたパリの街の無残な姿だ。第7章でサッカールはパリ市の補償金審査会のメンバーとして、シャロンヌ(現在の11区)あたりに妻のルネが所有する土地の評価を行なうのである。ここで問題となっているのは、プランス・ウジェーヌ大通り(現在のヴォルテール大通り)の貫通工事に伴う土地収用なので、時期としてはオスマンの都市改造計画の第2期にあたっている。サッカールは3人のメンバーとともに、歩いて工事の行われる地域を調査する。

 「この男たちが踏み込んだ道はすさまじかった。(…)道の両側には、鶴嘴でなかば壊されながらも、壁がまだかろうじて立っていた。背の高い建物が大きく裂けて、大きな安物家具の壊れた抽斗のように宙吊りになっている。」(ゾラ『獲物の分け前』中井敦子訳)

 ドーミエも、オスマンの第一期工事の頃にあった同じような光景を描いている。図版8に描かれているのは、右上に見えるサン=ジャック・ラ・ブーシュリーの塔の位置からして、おそらくリヴォリ通りの建物の取り壊しであろう。キャプションには「あの塔を立ったままにしているのももっともな話さ。あいつを壊すには気球に乗んなくちゃなんないからな」(図版8『シャリヴァリ』1852年12月7日)とある。右下には狭い谷間のようになった建物のあいだを人々が通っているところが描かれており、改造以前のパリの街路のありようがわかる。
図版8

住環境の改善
 この採光のできない狭い道路に関して、ドーミエは続く1852年12月7日号の『シャリヴァリ』(図版9)に、なかなか諷刺の効いた一枚を発表している。右側には荒っぽい工事の様子が描かれているが、ここでの眼目は左の夫婦の会話だ。「これで俺の植木鉢にも陽があたるぞ。ようやく植木が薔薇の木かニオイアラセイトウか、わかるってもんだ。」この家の主人は付近の建物が取り壊されたことで、急に陽当りがよくなったことを喜んでいる。これまで自分の植木鉢に植えられているのがなんの植物なのかわからなかったというのはにわかに信じられない言葉だが、それほど日が当たらないので植物がまるで成長しなかったというくすぐりである。

図版9

 オスマンの都市改造の目的のひとつは、住環境の改善にあった。それまで中世以来の幅の狭い通りの両側に高い建物が建てられていた。日光は届きにくく、空気がよどみ、水はけの悪い不衛生状態のなかに人々は暮らしていた。その結果のひとつは1832年に起きたコレラである。オスマンは、大通りの道幅を一律20メートル、沿道の建物は高さ20メートルの6階建て(しかもバルコニーは美観を考えて奥行き73センチメートルの狭さ!)と定めたが、同じような考えのもとに幅の広い街路を貫通させることによって、パリの美観を整えたり、暴動を抑止する軍隊を急行できるようにすると同時に、住環境の改善を計った。この時期為政者にも学者にも「流通」という考えが支配的で、人々や軍隊を効果的に移動させ、水や空気や日光をスムーズに循環させ(狭い街路に風車のかたちの扇風機を巡らせるという考えもあった!)、はては売春制度の整備によって精液をうまく処理させようとまでしたのだ。

 まさにドーミエの諷刺画はこうしたオスマンの都市改造がもたらす恩恵を諷刺的に描いている。図版では右側にセーヌ川沿いの建物が描かれていて、正面の建物が取り壊されることで眺望が開けたことがうまく示されている。もっとも、破壊されている地区からパリの河岸がこのように見えるはずはない。パリの中心部に丘のような小高い場所はないから、右に見える建物との関係からすれば、この老夫婦が住んでいるアパルトマンは、ノートルダム大聖堂の最上部あたりの高さになくてはならない。ドーミエは高低差を誇張することで、急に開けた視界の広がりを誇張してみせたのである。

 ついでにもうひとつ、注目してみたいのは、覆いもなく足場もない原始的な解体作業だ。それで、『お笑い新聞』に描かれたように、上から壊した建物の残骸が降ってくることもあったようだ。(図版10、ギュスターヴ・ドレの諷刺画、『お笑い新聞」1853年1月8日号)
図版10

生活環境と街の風景
 さて、急ピッチで進む工事は、住民の生活環境、そして街の風景を一変させる。まず見てみたいのは1852年12月27日号の『シャリヴァリ』に掲載されたドーミエの版画である(図版11)。キャプションには「さあさあ、旦那がた、急いで起きなせえ。今度はあんたらの番ですぜ。旦那がたの家を壊さなくちゃならないんで」とある。ここにあるのは、住民の意志とは無関係に強権を奮って改造計画を無理やり進めるオスマンにたいする痛烈な皮肉である。妻が暗い室内で穏やかな眠りを貪るのと対比的に、明るい外ではすでに解体工事が着々と進められている。ふつうなら高い建物の窓に現れるはずのない人間の姿に、寝ているブルジョワの夫は驚いているが、ドーミエは逆光のなか、亡霊のように見える労働者の姿を、お得意の光と闇の効果によって見事に描いている。
図版11

 工事中の街の風景といえば、さきほど『獲物の分け前』で触れた箇所で、補償金審査会のメンバーのひとりが目にするところにも現れている。「彼は絶えずきょろきょろ見回していたが、鶴嘴で真っ二つにされた家を目にすると、道の真ん中で立ち止まり、その扉と窓を仔細に観察した。」彼は自分が昔5年間暮らした家を発見したのだった。「それは、6階にある、かつては中庭に面していたらしい小さな部屋であった。壁に大穴が開き、中が丸見えで、一部はすでに壊されていて、黄色い大きな枝葉模様の壁紙が破れて風になびいている。左手には、からっぽの箪笥があって、青い紙が張ってある。そして傍らには竈の穴があって、煙突の端が見える。」そんなことに興味のないサッカールの傍らで、男は「ああ!わたしの部屋もかわいそうに! こんなになって」と嘆いているのである。

 これと似たようなことをドーミエも描いている。図版12(『シャリヴァリ』1853年1月3日号)は、廃墟となった建物に郵便物を届けに来た郵便配達人の驚きである。「管理人にお声をかけてください、か。まず管理人を見つけなきゃならん。これは容易ならんことだ。」郵便配達人の前にあるのは、管理人室の窓だけで、あとはすべて破壊されてしまっている。
図版12

 その混乱をもっと推し進めたのは、ドーミエが1852年12月10日号の『シャリヴァリ』(図版13)に「パリの解体工事の影響」と題して発表した諷刺画で、ここでは住み慣れた住民に起きた悲喜劇を描いている。真ん中で立ち尽くしているのはおそらく破壊されてしまった家の主人であろう。彼の隣の召使が鞄やら帽子箱などを担いでいるところを見ると、旅行から帰ってきたところのようだ。主人は「それにしてもわたしが住んでいるのはたしかにここなんだが。それに妻の姿も見当たらないぞ!」と知らぬ間に我が家が解体されてしまった男の茫然自失を描いている。
図版13


都市改造の裏面
 さて、街路は広くなったし、街並みも美しくなった。しかし、今まで人が住んでいたところに道ができるわけであるから、沿道の建物は部分的に削り取られる。シャゴ描く『お笑い新聞』1854年3月4日号にはそれがおかしく描かれている(図版14)。右手に座った男はこの部屋の住人で、「ねえ君、ぼくは椅子のうえで寝ているんだよ。自分の家がひどく後退させられたもんだから、部屋が小さすぎて今じゃベッドひとつさえ置けなくなってしまったからね。」とぼやいている。
図版14

 また新しく道路が整備されて、沿線の価値があがると、その家賃も値上がりする。同じ『お笑い新聞』1854年3月4日号にシャゴは、値上げを要求するアパートの大家を描いている(図版15)。「お分かりでしょうが、いまや、当方の家はリヴォリ通りに面することになりましたので、家賃を3000フラン値上げせざるをえないのです」3000フランといえば、現在の平価で約300万円だ。もちろんこれほどの値上げはありえないので、法外な家賃をつきつけられたことを大げさに書いてみたのだろう。この諷刺画に描かれている右側の店子は、立派な部屋着を身につけているし、奥には絵画も架けられているので、裕福なブルジョワだろう。しかし、一般的には、開発事業のあおりを食らって、家賃の高騰に耐え切れない低所得者層の住民はパリ周辺の新開地に移り住みようになったのである。
図版15
[この項続く]

IV-1 「オスマンのパリ大改造と諷刺」(1)

オスマンのパリ大改造計画
 第二帝政期にナポレオン三世が断行したパリ市街の大改造は、中世以来の古い街並みを近代都市にふさわしい相貌にかえる大事業であった。その中心となったのがセーヌ県知事ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン(1809−1891)で、彼が行った改造事業は、1852年から59年までの第一期と59年から67年までの第二期に大きく分けられる。第一期では、南北を走るストラスブール大通り、セバストポール大通り、サン=ミシェル大通り(右岸のセバストポール大通りは北に行くとストラスブール大通りになり、左岸に行くとサン=ミシェル大通りになる)、東西を走るリヴォリ通り、それと接続するサン=アントワーヌ通りなど、パリを縦横に貫く幹線道路を貫通させ、それにあわせてパリ中心部が整備される。そして第二期では、中心部から周縁部へと向かう広場(現在のレピュブリック広場、エトワール広場、シャイヨー、エコール・ミリテールなど)とそこから放射状に伸びる街路のネットワークがつくられていくのである。

 この首都をありようを一変させる大規模な都市改造が進行するあいだは、当然のことながら、街並みが大きく変わるばかりでなく、住民たちの生活に大混乱を引き起こす。ここではパリの道路整備にかんする諷刺画をいくつか見てみたい。まずその前に、パリ大改造の旗振り役オスマンの諷刺画を挙げておこう。

 オスマンの諷刺画は、普仏戦争直後に発表された『帝政の動物園』(ポール・アドル画)に載っているものだ。この版画集は副題に「20年にわたりフランスを貪ってきた反芻動物、両生類、肉食動物、その他の税金泥棒動物からなる」とあるように、第二帝政を支えてきた政治家たちの身体を動物に変身させて、その「悪行」を厳しく非難している。ちなみに、ナポレオン三世は禿鷹で描かれており、そのキャプションには「禿鷹(臆病、獰猛)と書かれている(図版1)。また皇后のウジェニーは、「間抜け」を表す「鶴」となり、キャプションには(気取り、愚鈍)と書かれている。
図版1

 さてオスマンは、漆喰鏝を右手に握った巨大なビーバー Castor になって、パリの建物をつくっている(図版2)。ビーバーはダムづくりでも知られているように、昔から水利工事や水利施設の専門家の象徴となっている。ここでは建設工事一般を象徴であることは明らかだ。また右に「ネラックの墓地」Cimetière de Nérac と書かれた墓が見える。ネラックはボルドー近くにある都市で、オスマンはここで1832年から1840年まで郡長をやっていた。なぜ墓になっているのかは不明だが、ひょっとして、上昇志向の強い彼が、自分のキャリアのためにネラックを利用するだけして捨てたことを示しているのであろうか。版画につけられたキャプションは「精力的、金銭欲」である。15億フラン(現在の平価で約1兆円)を投じた大事業にオスマンの個人的な蓄財はからんでいないようだが、当時は彼がこの改造で大きな利益を得ていたという噂は絶えなかった。
図版2


オスマンの「外科手術」
 オスマンの都市改造の大きな柱は、「外科手術」に喩えられるように、密集した建物とそのあいだを迷路のように縫って走る狭くて水はけの悪い路地を大胆に切り裂いて、両側に整然とした建物が並ぶ幅の広い街路を生み出すことだった。それは、ゾラの『獲物の分け前』(1871年)のなかにも描かれている。この小説はオスマンの首都改造計画に乗じて、主人公のアリスティッド・サッカールが不動産の投機によって莫大な利益をつかもうとする話である。野望に燃えるサッカールはある夕暮れ、モンマルトルの丘から妻のアンジェールに新道建設の説明を熱く語りながら、最初の道路網はこう、2番目の道路網はこう、そして3つ目はこうと、指で眼下に広がるパリを「容赦ない苛立った手で」切り続けていく(第2章)。

 この切開の大胆さは以下に掲げる航空写真からも明らかだろう。写真は、オペラ座の裏手から始まるラファイエット通りを撮影したものだが、北東へ一直線で伸びている通りは約3キロの長さがある。この通りの完成にオスマンはたいへん満足したようだが、なるほど「外科手術」という表現がひとめで納得できる。(図版3)
図版3

 諷刺は近代的な都市として一新されるはずのパリではなく、解体される首都の爪あとに関心を向ける。たとえば、エドモン・モラン Edmont Morin (1824-1882) は、パリに次々押し寄せる解体屋たちの群れを描いている(図版4。発表年代不詳)。パリの街は「ルテチア」(パリの古名)という女神が横たわった姿で表されている。「ルテチア」は頭飾りにいくつもの風車を指していることから、まず頭部はモンマルトルの丘を表していることがわかる(もっともモンマルトルがパリ市に併合されたのは1860年になってからのことであるが)。またお腹のベルトを模しているのはパリを囲む市門のひとつだ。これは首都防衛のために建設されたもので、いちばん新しいものは1841年から44年のあいだ、ティエールが建設したものだ。そこをめがけて、手押し車を押す者、鶴嘴を担いだ者などが押し寄せてきている。解体と金儲けに群がる人々を描くこの諷刺画がオスマンの企ている計画の破壊的な側面を強調していることは明らかだ。
図版4


 リヴォリ通りとシャンゼリゼ大通り
  先にも述べたパリの幹線道路の整備として、まずリヴォリ通りが挙げられる。チュイルリー庭園やルーヴル美術館の北側を沿って走るこの通りは、オスマン改造計画の第一期工事によって東西に伸ばされ、最終的にはパリの中央を3キロにわたって横断するメインストリートとなる。ドーミエ描く「新しいリヴォリ通りの眺め」(図版5、1852年12月24日『シャリヴァリ』)には工事が始まった時期の様子が描かれている。手前には並木がなぎ倒されたり、道が掘り起こされたりするその上を、男の子を連れた母親が難儀して歩いている。その向うには馬を引く者、歩く者、荷を担ぐ者、そして馬車が通り、大混雑を極めている。絵の中心の馬車に乗っている男は窓を開けて御者に向かって話しかけているが、おそらくは渋滞に苛立って、もっと急ぐように命じているのではないだろうか。また後景には道路を拡充するために沿道の建物を壊している様子がさりげなく描かれている。
図版5


 この諷刺画からは大混雑と喧騒がみごとに伝わってくるが、テオドール・ド・バンヴィルも回想しているように、リヴォリ通りを横断するのはまことに一苦労だったようだ。「5時にルーヴル百貨店の前のリヴォリ通りを渡ろうとするのは、中央アフリカの人喰い人種のなかを探検するよりももっと危険な企てであることは間違いない」(『パリに生きて』1883年)。ギュスターヴ・ドレはこのバンヴィルのことばと符合する諷刺画を描いている。真ん中の男が、馬車のあいだを縫うようにしてサン=トノレ通りを走り抜けている。(図版6,『お笑い新聞』1853年1月8日号)
図版6


 コンコルド広場を介してリヴォリ通りと繋がるシャンゼリゼ大通りもこの時期に整備された。シャンゼリゼ大通りは1834年ころから整備され始めたが、とりわけ1855年に開催される万国博覧会のためにそれは本格化した。そのために、街路はもちろんのこと、万博のメイン会場となる豪華な「産業宮」(正式には産業と芸術宮」)が建てられた。ここは55年だけでなく、78年、89年の博覧会場として使われたし、また1857年から1897年まで毎年行われる官展(サロン)の会場ともなった。ドーミエの「シャンゼリゼでの楽しい散歩」(図版7,1855年5月10日『シャリヴァリ』)にはまさにこの時期のシャンゼリゼが描かれている。建設工事に従事する労働者の間をブルジョワのカップルが散策をしている。労働者の担ぐ大きな木材に頭をぶつけられそうになったり、スカートにシャベルで土をかけられる様子は、建設ラッシュの慌ただしさをうまく図像化すると同時に、自由な時間を享受できるブルジョワと、そうしたレジャーを楽しむ暇もない労働者の対立を鋭く捉えている。
図版7

 19世紀前半のシャンゼリゼは、「社交界の散歩道であり、庶民が集まる場所でもあった」と言われるようにあらゆる社会階層の人間が訪れる場だった。しかし、55年の万国博覧会を境として、美しく整備されたシャンゼリゼは上流階級の独占物となり、「モード、アクセサリー、滑稽さ、豪華さ、そして虚栄心の出会いの場」(『散歩のハンドブック』1855年)に変貌していくのである。

2014年8月11日月曜日

I-6 「壁の塗り替え」(3)

メスにおける返答
 さて最後は、国王ルイ=フィリップが手にしている鏝に注目してみたい。鏝に盛られた漆喰には「メスにおける返答」Réponse de Metz と書かれている。この「メスにおける返答」とはなにか。メスはドイツ国境に近いフランス北東部の都市で、パリから330キロのところにある。1831年6月7日から7月1日まで、ルイ=フィリップ国王は息子2人と商業・公共工事担当大臣のダルグーをともなって、フランス東部を巡る旅を行い、モー、シャトー=ティエリー、シャロン、ヴァルミー、ヴェルダン、メス、ナンシー、リュネヴィル、ストラスブール、コルマール、ミュルーズなどの都市を訪問した。ここには、共和主義的な影響力の強い東部フランスを巡幸することによって、反政府的な動きに楔を打つ目的もあった。

 ところでこの巡幸中、メスを訪れたとき、ちょっとした事件が起きる。市議会を代表して演説を国王の前で行ったメスの市長は、国には「貴族院議員資格の世襲制廃止」という解決すべき問題が残っており、この特権を消し去らなければならないことを強調した。また外交問題として、ロシアによって自由を蹂躙されているポーランドを助けることを求めた。「貴族院議員資格の世襲制廃止」とは、7月革命後、1814年の憲章を改訂するさいに激しい議論を巻き起こした問題だ。1830年の憲章では、制限選挙制によって選ばれる議員からなる代議院と、国王の指名によって選ばれる議員による貴族院の二院制をとり、貴族院議員には終身または世襲の身分が与えられた。「貴族院議員資格の世襲制」は左派からは、アンシャン・レジームの容認しがたい残滓の象徴として捉えられ、その制度の廃止が強く求められた。結局、世襲制は1831年10月10日、代議院において永久的な廃止が採択される。メス市長の発言はこの問題の議論が行われていた時期にあたり、共和主義的な立場から決断を国王に促したものと言える。

 またポーランド問題についてはすでに I-3 「ワルシャワの秩序は保たれている」で述べたように、フランス政府はヨーロッパを支配する列強との関係を重視して、ポーランドへの不介入政策を続けた。しかしこの事なかれ主義に不満を持つ共和派は圧制からの解放を願う諸国民を支援することこそが革命の理念にかなっているとして、ポーランドの独立を支援するために軍を派遣することを求めていたのである。

 市長の発言にたいして、国王は「市議会に、高度な政治的問題を討議をする権限はない。この権利を有するのは代議院と貴族院だけである。したがってわたしは、あなたの演説のこの部分に答える必要はない。このことはフランスと諸外国の外交関係についてあなたが述べたことにも適用される。外交関係についても同じく市議会は議論する権利はない」と、市長の質問をにべもなくはねつけた。

  また国民衛兵司令官の代理と称するひとりの大尉が国王の前に進み出て、演説原稿を読み始める。彼が「貴族院議員資格の世襲制廃止」について触れようとしたとき、国王は大尉の話を止め、彼の手から原稿を奪い取ってこう言った。「もう結構だ。国民衛兵は政治問題に関わるべきではない。それは国民衛兵に関係ないことである。彼らが意見を述べる必要はない。(・・・)軍隊は討議などしなくてよろしい。討議は禁止されている。わたしはこの件についてこれ以上話を聞きたくない」と、国民衛兵が政治に首を突っ込むことを厳しく戒めた。

 これが「メスにおける返答」の概要である。事件は国王が越権行為をたしなめたエピソードにすぎないように見えるが、裏にはひとつの政治的背景があり、それを共和派の諷刺画は批判しているのである。それは国の方針の大きな転換である。ルイ=フィリップは1830年11月2日に銀行家で「運動派」の政治家ジャック・ラフィットを首相に指名し、内閣を組織させる。「運動派」にとって改訂憲章は通過すべきひとつの段階にすぎず、それを起点により民主主義的な政体の実現をめざしていた。ラフィットが革命運動に寛容な政治姿勢をしていたことに加えて、彼に政治的な手腕が乏しかったせいもあり、パリでは騒乱や示威行動が絶えなかった。とくに1831年2月14、15日には、サン=ジェルマン・オークセロワ教会で行われたベリー公追悼のミサをきっかけとして大規模な暴動が起こり、それは地方にも波及した。ベリー公はアルトワ伯(のちのシャルル10世)の長男でブルボン家の将来を背負って立つ人物と目されていたのだが、1820年に暗殺された。正統王朝主義者たちはベリー公追悼ミサを口実として、その長子であるシャンボール伯の存在をアピールしようとしたと言われる。それにたいして共和主義者たちはブルボン朝復活を目論む動きと考えて、激しく反発したのである。

 こうした大規模な騒擾の頻発を前にして、1831年3月13日、ルイ=フィリップはラフィットに代えて、「抵抗派」のカジミール・ペリエを首相に据える。「抵抗派」にとって革命は憲章を守るための運動にすぎず、彼らは革命の継続に「抵抗」した。ペリエは、国家権威の立て直しと公共秩序の確立をめざして、豪腕を発揮した。パリで日常化するデモにたいしては断固とした措置をとり、4月10日に集会を規制する法律を制定し、さらに4月15日、16日のデモには消防隊の放水器を使って、参加者を蹴散らした(1-4 「なぞなぞ」(3)を参照)。

 また、ラフィット内閣の「行政的な無政府状態」を解消しようとし、綱紀粛正を断行した。ペリエの考えでは、それまで公務員は上司に従う習慣を失っていたし、政府も上意下達を徹底できなかった。また公務員は政府の方針に従わず、民意におもねっていたからこそ、社会的な混乱が続いていた。その原因のひとつは、左派の牙城、愛国的人民協会 Société patriotique et populaire の存在であると考えた。この組織の中心にはラファイエット、デュポン・ド・ルール、ラマルク将軍、オディロン・バローなどのお歴々がおり、そこに反対派の新聞、多くの軍人、司法官、官僚がなども加わり、地方にも広いネットワークを形成していた。ペリエはこれにたいし、公務員、軍人がこれらの全国組織に参加することを禁止し、違反した国務院評定官のオディロン・バローを罷免し、ラマルク将軍の軍指揮権を剥奪し、メス市長ブーショット(彼がつくった愛国組織から全国組織が生まれた)の職を解任した。

 上に述べた国王の「メスにおける返答」は、こうしたペリエ首相の強権的な締めつけ方針のなかに位置づけられる。少なくとも共和派はそのように理解していた。国王の返答は、権力機構の厳然としたヒエラルキーのなかでの自由な議論、提案を否定するものだったが、問題はそこにとどまらず、国民の自由な意見を抑圧しようとする意図がかいま見えたと思われたのであろう。また、市長と大尉が述べたのは「貴族院議員資格の世襲制廃止」と「ポーランド支援」という、まさに共和派が強く要求し、体制側が実現に難色を示ししていた喫緊の問題である。これにたいするルイ=フィリップのにべもない反応は、国王の保守化の現れと考えられたといえよう。

 もう一度、「壁の塗り替え」の諷刺画に戻ろう。偽の左官屋ルイ=フィリップは右手に「メスにおける返答」という漆喰を使って、共和主義的な要求や革命理念の書かれた落書きを消そうとしている。もはや意味は明らかだ。「メスにおける返答」に象徴される保守的態度が7月革命をなきものにしようとしている、ということである。

 ところで、この「壁の塗り替え」は『カリカチュール』に掲載されるとすぐに差し押さえられ、不敬罪で裁判にかけられる。その理由と裁判の経緯については次回に述べてみたい。

2014年6月21日土曜日

III-1 グランヴィル補遺

 J.J グランヴィルはナンシーに育ったが、あるとき父の友人のマンシオンに勧められてパリにいくことになった。グランヴィルを新たな世界に導いたこのマンシオンという人物について興味深いことがわかったので、ここではそれについて書いてみたい。

 グランヴィルは中学のころ学校に通うのがいやで、細密画家をやっていた父に願い出て、その工房の見習いとなった。1825年、グランヴィル22歳のころ、たまたまナンシーにやってきた父の友人マンシオンが彼の才能に驚いて、パリにある自分のアトリエで働いてみないかと誘う。こうしてグランヴィルはパリにやってくる。

 このマンシオンという人も細密画家だった。細密画というのは肖像や風景などを、水彩、グアッシュ、油彩などで細部まで緻密に描いた小型の絵で、18世紀から19世紀前半にかけて大いにもてはさやれた。しかしグランヴィルはマンシオンのアトリエでの仕事にたいして情熱を持てなかったようだ。ミニアチュールに関していえば「彼は何枚かの肖像画を描いただけだった。それらの肖像画は実物によく似ていたものの、腕の立つ点描画家ならば絵に与えることができる色調のみずみずしさを欠いていた」と同時代のノレ=ファベールは証言している。細密画は措くとしても、この時期のグランヴィルにとって重要なことは、1827年に『サロンの女予言者』という52枚の占いカードを発表したことである。これは当時の慣例で、師であるマンシオンの名前で発表されたが、版画家グランヴィルの事実上のデビュー作になった。

 このマンシオン、本名アンドレ=レオン・ラリュAndré-Léon Larue はいったいどんな人だろうか。彼は1785年にナンシーに生まれているが、没年はわかっていない。少なくとも1834年までは生きていた形跡があるが、1870年まで生きたという説もある。彼は細密画家であった父やジャン=バティスト・イザベイ(1767−1855)の弟子だった。ふつうは象牙に大型の細密画を描いていたが、ときには犢皮紙、磁器、琺瑯などにも描いた。彼はナポレオンの皇妃マリ=ルイーズの肖像細密画(1812年)のほか、帝政期の俳優、芸術家、貴族などの細密画も数多くつくっている。なかには1830年ころに国王ルイ=フィリップの肖像画も残っている。


マンシオン「マリ=ルイーズの肖像細密画」1812年

 このように活躍したマンシオンだったが、彼のその後の活動を見ると、肖像細密画というジャンルの栄光と悲惨を象徴しているように思われる。人気を得ていた肖像細密画は19世紀中頃になると、1839年にダゲールが発表した銀版写真から始まる写真の発展によって大きな打撃を被る。

 エアロン・シャーフの『芸術と写真』によれば、1830年、イギリスのロイヤル・アカデミーの展覧会では、1278点の展示作品のうちミニアチュールは300点にものぼったという。それが1866年には64点、70年には33点に激減する。その理由は、肖像細密画がより安価で簡単にできるダゲレオタイプ(銀版写真)の肖像写真にとって代わられたことによる。

 仕事が減少した細密画家のなかには写真家に転向する者も多くいた。たとえばベルリンやハンブルクには1850年以前、59人の銀版写真家がいたが、そのうち29人が過去に画家であったり現在画家である者で、そのほかに石版画家だった者と版画家だった者が一人ずついたという。この事情はロンドンでも変わりはない。さらに大きな視点でいうならば、写真は肖像細密画だけにとどまらず、絵画一般にも深刻な影響を及ぼしていた。ポール・ドラロッシュのアトリエで学んでいたギュスターヴ・ル=グレー、アンリ・ル・セック、シャルル・ネーグル、ロジャー・フェントンなどが1850年前後になって写真家に転向したように、画家志望の若者たちが写真家になった例は少なくない。

 また一方、写真家に転向せず、肖像細密画の修正や色付けをする者たちもいた。当時、写真の大きな欠点のひとつは、色彩がないことだった。それを補うために写真の彩色に細密画家が求められた。また銀版写真を補正する技術もなかったことから、筆で修正を加えるためにも画家の手が必要だったのだろう。先に掲げたルイ・フィリップ国王の肖像細密画を見ると、高さ10cm弱という小ささにもよるのだろうが、大きな肖像画とはちがって、写真に近いリアリティが感じられる。細密肖像画と写真が競合するわけである。

マンシオン「ルイ・フィリップの細密肖像画」1830年ころ

アントワーヌ・クローデ「ルイ・フィリップの肖像写真」1842年

 マンシオンはこちらの生き方を選んだ。時期は特定できないのだが、彼はロンドンに渡り、細密画家の仕事を続けながら、アントワーヌ・クローデなどの銀版写真家の下で写真を色付けをしていたという。アントワーヌ・クローデ (Antoine Claudet, 1797-1867) はもともと銀版写真を発明したルイ・ジャック・マンデ・ダゲールの弟子で、1841年以降ロンドンに渡り、ロンドンで最初期の銀版肖像写真家として活躍した人である。マンシオンがロンドンに渡った経緯はわかっていない。ロンドンでの細密画の需要を見込んでイギリスに旅だったのかもしれないし、あるいは細密画に未来がないことを予感して、アントワーヌ・クローデの誘いに乗ったか、彼に色付け師の仕事を頼み込んだのかもしれない。

 もしグランヴィルが、父の仕事を素直に継いだり、パリに出てマンシオンのアトリエでそのまま働いていたりしたら、彼もマンシオン同様、仕事が激減して、写真の色付け師に転向したことも考えられる。幻灯、シルエット、写真など同時代に発展する光学装置に強く惹かれていたグランヴィルである、ひょっとしたらル・グレーやネーグルのように、写真家になっていた可能性もなくはない。ただ初期の写真家たちの多くが1820年前後に生まれていることを考えると、1803年生まれで1840年代には40歳になろうとするグランヴィルが写真家に転向するはもう遅すぎたとも言える。
 
 

2014年6月15日日曜日

I-6 「壁の塗り替え」(2)


 「自由は世界を駆けめぐる」
 ルイ=フィリップの左肘の後ろ辺りに書かれている落書きには「自由は世界を駆けめぐる、7月29日」la liberté fera le tour du monde, 29 juillet とある。これは読んだとおり、7月革命が大革命と同じく、フランス国内のみならず他国の国民に大きな力を与え、自由を求める運動として世界に広がっていったことを意味している。それが消されようとしているということは、I-3 「ワルシャワの秩序は保たれている」で見たとおり、ルイ=フィリップの政府がヨーロッパの保守的な列強に配慮して対外的な事なかれ主義をとり、ポーランド、イタリアなどで起きた自由主義運動を見殺しにしたことを示している。いわば革命的伝統をフランスは捨てたということである。

 ところで、この「自由は世界を駆けめぐる」la liberté fera le tour du monde という表現は当時よく使われていたようで、大革命期に愛唱されたと思われる「赤いフリギア帽の旅」Les Voyages du bonnet rouge というシャンソンにも「ついに、パリから日本まで、アフリカからラップランドまで平等は根づいていく。暴君たちよ、運命の賽は投げられた。自由のフリギア帽は世界を駆けめぐるだろう」Le bonnet de la liberté fera le tour du monde という歌詞が入っていた。歌詞のなかで、辺境にまで平等が広まったことを示すのに、「日本」Japon と「ラップランド」 Lapon で韻を踏ませている。日本人としては苦笑せざるを得ないが、それはともあれ、自由と平等を掲げたフランスが先頭に立って世界中にそれを広めていく、というところに国の矜持があった。いわば「世界の中心で自由を叫ぶ」というわけである。その詳しい分析はのちに譲るとして、こうした理想に導かれるようにして、7月革命後には『シルエット』(1830年12月6日号)にその名もまさしく「自由は世界を駆けめぐる」と題された版画が、そして1848年2月革命のときには、ソリユーの「社会民主的な世界共和国」が描かれる。


「自由は世界を駆けめぐる」『シルエット』1830年12月6日号

ソリユー「社会民主的な世界共和国」(1848年)


「クレドヴィルは泥棒だ」
 またルイ=フィリップの腰のあたりの落書きには、「クレドヴィルは泥棒だ」Crédeville est un voleur と書かれている。これはルイ=フィリップと関係のない落書きである。「クレドヴィル」という落書きは1820年代末になって、「ブージニエの鼻」le nez de Bougnier と同じように、パリの壁という壁によく書かれたという。ついで1830年になるとルイ=フィリップの諷刺である「洋梨」の絵が現れ、クレドヴィル、ブージニエの鼻、洋梨は、落書きの3大トリオとなって、パリの街に氾濫した。さらに、シャルル・モンスレによれば、これらの落書きはパリばかりでなく、なんとエジプトのピラミッドにも3つ揃って描かれたという。

 クレドヴィルにはいくつかの説がある。ひとつは、画家の卵たちの悪ふざけである。生真面目な画家クレドヴィルをからかってやろうと、画家仲間たちがいたるところに赤い石墨で「泥棒クレドヴィル」と書いて、当局の注意を惹こうと考えたらしい。また別の説では、最初にクレドヴィルの名前をパリの壁に落書きしたのは、少し頭のおかしいプラム売りの女だった。彼女は帝政期にクレドヴィルと婚約していたのだが、ナポレオンの没落後、男と生き別れになって精神に変調をきたしたらしい。彼女は婚約者と再会したい一心でパリの壁という壁にクレドヴィルという名前を書いたという。さらに、クレドヴィルは犯罪者で、逮捕後にジャン・ヴァルジャンのように強制労働をしていたという説もある。徒刑場をまんまと脱獄した彼は、その威信にかけて捜索する警察を尻目に、フランス各地で「泥棒クレドヴィル」と落書きして当局をからかったのだという。日本の盗賊や暴走族に倣っていえば「クレドヴィル参上」というところではないだろうか。

「ブージニエの鼻」 
 ことのついでに「ブージニエの鼻」についても書いておこう。こちらはもっとよく事情がわかっている。ブージニエ Bouginier は本名アンリ・ブージュニエ Henri Bougenier (1799−1866)といい、19世紀の初頭、新古典主義のグロのアトリエで学んだ画家で、サロンにも何度か出品したあと、写真家に転向したらしい。彼が友だちの画家たちにからかわれたのは、その大きな鼻のせいだった。当時のことを回想するかたちのエッセイ『パリのイギリス人』という本によれば、ブージニエは、同時代の文学者のシャルル・ラッサイ、国立自然史博物館の館長を務めたアントワーヌ=ロラン・ジュシユー、俳優のイアサント、そして、7月王政の政治家で『カリカチュール』の標的にもされていたダルグーと並んで、大きな鼻で有名だったという。

シャルル・ラッサイ

アントワーヌ=ロラン・ジュシユー(ダヴィッド・ダンジェ作)

イアサント



 なぜだがわからないが、パッサージュ・デュ・ケールの入り口にはかつてブージニエの諷刺肖像が掲げられていた。図を見るとなるほどからかわれるのも無理はない。そこには落書きの流行に欠かせない「華」があるではないか。
パッサージュ・デュ・ケールのブージニエ


 それにしても、「クレドヴィル」「ブージニエ」のどちらも画家たちの悪ふざけという点が目を惹く。なるほど当時「画学生の悪ふざけ」farce de rapin ということばがあるくらい、美術学校の学生たちは冗談やら洒落やらいたずらが好きだったようだ。バルザックの『ゴリオ爺さん』にも次のような一節がある。「最近発明されたディオラマは、(…)ほうぼうの画家のアトリエで、語尾にラマをつけて話をする冗談を生み出した。」そして小説の舞台となる下宿屋ヴォケール館では、常連の若い画家を中心に、「健康」のことを「サンテラマ」、「すごい寒さ」のことを「フロワトラマ」などという言い回しが流行ったりするほどになった。
 もっとも画家となれば、「ブージニエの鼻」だとか「洋梨」などのカリカチュアはお手のものだ。若い画家たちが人の特徴を捉える諷刺画に手を染めるのも不思議はない。後年パリ・オペラ座を設計することになるシャルル・ガルニエも、17歳で美術学校に入学してから諷刺画に手を染めていた。最後にそのいくつかの例を掲げて、今回の終わりとする。
「ポール・ボードリ」(シャルル・ガルニエ)

「諷刺自画像」(シャルル・ガルニエ)1850年


(この項続く)

I-6 「壁の塗り替え」(1)

「壁の塗り替え」『カリカチュール』1831年6月30日号

   I-4「なぞなぞ」(1)で簡単に触れた「壁の塗り替え」le Replâtrage (『カリカチュール』1831年6月30日)を詳しく見てみたい。この版画では左官屋の姿をしたルイ・フィリップが「7月29日通り」の汚れた壁を塗りなおしている。「7月29日」とは7月革命が起こった日であり、落書きの「自由のために死す」「自由は世界を駆け巡るであろう」「市庁舎での将来構想」などは、革命の精神や、ルイ・フィリップが国王になったときに示した政治姿勢を表している。それが今やすっかり消されつつあるというのだ。面白いのはルイ・フィリップの姿である。彼は労働者風のスモックを着て左官に化けているが、胸元から軍服が覗き、また庶民にふさわしくない華奢な靴を履いている。庶民の代弁者の触れ込みだった国王の正体見たり、というわけだ。

「自由のために死す」
 では細部を見て行きたい。ルイ=フィリップが漆喰で消そうとしている落書きにはなにが書かれているのか。一番上には「自由のために死す」la mort pour la libérté とある。これに説明の必要はないだろう。7月革命の際に多くの市民が、シャルル10世政府を打倒し、自由を回復させるために死を賭して戦ったことを指している。

「市庁舎での将来構想」
 その下に書かれているのは、「ラファイエット」Lafayette、「市庁舎での将来構想」Programme de l’Hôtel de Ville(その大部分は消えている)である。「市庁舎での将来構想」とは、国王になる直前のオルレアン公が大革命の象徴的人物ラファイエットと会談をして取り決めたといわれるもので、立憲君主制のもとで共和主義的な政策を実現していくという構想であったようだ。「であったようだ」と書いたのは、この構想が現実にあったのかなかったのか、7月王政発足当時から大きな議論になっていたからである。

 革命を賭けた「栄光の3日間」の翌日1830年7月30日に、銀行家であり政治家でもあるラフィットと連携したジャーナリストのティエールとミニェが、革命の混乱を早期に収拾すべくオルレアン公を国王にしようと考え、いち早く次のような文書をパリ中に貼りだす。

 「シャルル10世はもはやパリに入ることはできない。彼は民衆の血を流したからである。しかしフランスが共和国となれば、我々は恐ろしい内紛に直面することになるであろうし、ヨーロッパの諸外国との不和を招くであろう。オルレアン公は革命の大義に身を捧げた王族である。オルレアン公はこれまで一度として我々に刃を向けて戦ったことはない。オルレアン公はジェマップにいた。オルレアン公は市民王である。オルレアン公は戦場で三色旗を掲げていた。そして今もなお三色旗を掲げることのできるのはオルレアン公だけである。我々が彼以外の者を望むことは絶対にない。オルレアン公は、我々がこれまでに願い、考えていたかたちの憲章を受け入れている。彼が王冠を受け継いだのは民衆からである」

 これと連動するように30日午後になると、共和派の動きを恐れる議員たちが議会に集まり、オルレアン公に国王代理を受け入れを要請する決議を行なう。こうしてお膳立ての整った30日深夜、革命派と反革命派の争いに巻き込まれることを嫌って郊外に身を潜めていたオルレアン公は、ヌイイからパリの住居であるパレ・ロワイヤルに帰ってきた。そして翌日、彼はパリ市庁舎でラファイエットと会談を行なうことにする。自分が国王になるためには市民の前に姿を現すことがぜひとも必要だったからである。

 一方、パリ市庁舎に陣取った革命派たちは、ラファイエット将軍を担いで共和制を実現しようとしていた。しかし当のラファイエットはシャルル10世に引導を渡したものの(「いかなる和解も不可能であり、王家の支配は終わった」という7月29日の発言)、彼は必ずしも共和国の成立を無条件に支持していたわけではない。国民の意志を尊重してアメリカ式の共和主義体制を実現したいと考えていたが、その一方で、平和が必要な今このときに共和制を無理強いして、国内が混乱に陥り、諸外国が介入してくることを恐れていた。ラファイエットは決断力の乏しい人だったようだが、このときも、彼は大いに迷っていた。自分の友人でもあり、オルレアン公に近いジェラール将軍や議員のバロー、モーギャンたちから王制の採用を働きかけられていたし、さらに7月31日の朝、アメリカ公使ライヴスの訪問を受け、共和制になればフランスのこれまでの40年の努力が無駄になると忠告されたのだった。

 そして31日の午後に、オルレアン公がパリ市庁舎に赴いてラファイエットとの会談が実現する。その場では、同日の早い午後に議員90人が署名した声明(混乱から脱するための法整備を早急に行なうこと、オルレアン公を国王代理とすること、憲章を順守することなど)が読み上げられた。その会談後、ふたりはバルコニーに出て、市庁舎広場に集まる人々の前に姿を現した。市民の歓呼のなか、ふたりは抱き合い、抱擁を交わす。これがシャトーブリアンのいう「共和派のキス」baiser républicain である。この抱擁によって、オルレアン公は、ラファイエットの、つまり共和派のお墨付きをもらい、国王への道筋をつけることができたのである。

市庁舎バルコニーでの抱擁
ところが、会談後、共和派の人たちは、オルレアン公から進歩的な政策の明確な言質をとっていないことを不満にとして、ラファイエットを責めた。そこで翌日ラファイエットはパレ・ロワイヤルに赴き、再度話し合いをする。そのなかで、本来なら採用すべきはアメリカの憲法だが、現状においては、国民に支持された国王のもとで共和主義的な制度を整備していくのがふさわしい、と いうラファイエットのことばに、オルレアン公が「わたしもそのように理解している」と答えたという。少なくともラファイエットはそのような言葉のやりとり があったとしている。文書のかたちでは残っていないが、これが「パリ市庁舎での将来構想」である。ルイ=フィリップを始めとして政府系の人たちによれば、そのような「将来構想」は存在しないという。「共和派のキス」に表される市庁舎バルコニーでの儀式がその「構想」そのものであると主張する者もいれば、「憲章」こそがそれだと解釈する者もいた。

 国王自身、のちの1832年6月6日に、ラフィット、オディロン・バロ、共和派のアラゴーとの会談のなかで次のように明言している。「市庁舎での将来構想のことがよく話題に上るが、それは卑劣なでたらめである」。32年6月1日に死んだラマルク将軍の葬儀において「約束が公式に受け入れられたのに、卑劣にもそのあと忘れられた」などという者がいたのには憤りを覚える。国民が求めたのは憲章であった。そもそも「わたしはなにも約束する権利は持っていなかったし、事実なにも約束はしていない」。

 しかし、ラファイエットや共和派の人々は、「市庁舎での将来構想」という約束は、「公式に受け入れられたのに、卑劣にもそのあと忘れられた」と考え、しだいに保守化していく国王ルイ=フィリップの姿勢を革命にたいする裏切りとして非難し続けたのである。

(この項続く)

2014年5月28日水曜日

II-1 「出産=ひと安心」


[IIは、1870年以降の諷刺を扱う]
アンドレ・ジル「出産=ひと安心」
アシル・ドヴェリア『アンリ4世の誕生』

「中道派の誕生」(I-2) は、アシル・ドヴェリアの「アンリ4世の誕生」を下敷きにしていたが、アンドレ・ジルも1872年8月にこの有名な絵画を使って諷刺画を描いている。今回はそれを見てみたい。

 この諷刺画が暗示しているのは、普仏戦争後に成立した国防政府時代のできごとである。横たわる女性はフランスの女神であり、いま「410億フラン」という数字のある丸々とした子どもを産み落としたばかりである。その子をアドルフ・ティエールが居並ぶ人たちに見せようとして高々と差し上げている。ドヴェリアの絵画の「アンリ4世」が410億フランの子どもに、アンリ4世の祖父アンリ・アルブレがティエールに代えられているのである。

 諷刺画の背景を説明しよう。アドルフ・ティエールは7月王政の成立に努力し、国王ルイ=フィリップの下で2度首相を務めている。第二帝政の間、しばらく政界から離れていたが、1863年に議員に返り咲く。そして普仏戦争後、1870年1月28日に戦勝国ドイツと暫定的な休戦協定が結ばれ、2月17日、ボルドーに国民議会が置かれると、ティエールはフランス共和国行政長官に任命される。彼はドイツとの講和と賠償金の支払いなどの戦後処理に奔走する。ドイツとは2月26日に仮条約が結ばれ(50億フランの賠償金とアルザス・ロレーヌの割譲)、5月10日にフランクフルト条約が正式に締結される。そして賠償金の支払いとドイツ軍の撤退を同時並行で進めていき、早くも1873年9月に両方を実現する。

 しかしこの間、話はそう簡単に進まなかった。まず2月28日に、正式な講和条約を結ぶための国民議会選挙が開かれたが、王党派が2/3の議席を占めてしまう。パリでは共和派が優勢だったものの、大革命、2月革命期の共和国の記憶から、共和派にたいしては醒めた見方が広がっていたために、地方では保守的な傾向が強かった。

 だが王党派が多数を占めているからといって、直ちに王政復古が実現するわけではなかった。まずシャルル10世の孫のシャンボール伯(ボルドー公)を王位につけようとする正統王朝派とパリ伯(ルイ=フィリップの孫)を担ぐオルレアン派に分かれていた。また、外国の占領軍がいるなかで王が帰ってくれば、1814年の王政復古の二の舞いとなって国民の反発を招きかねないので、王党派はとりあえずティエールを支持して、王政復古の準備をすることにした。また一方の共和派も、少数派ながら、共和国の実現をめざしていた。この状況でティエールは、議会における王党派と共和派の衝突を避けるために、新政権がどのような政治体制をとるかを棚上げにする「ボルドー協定」(3月10日)を国民議会と結んで、現状維持を計った。

 こうしたなか、講和条約にたいする不満、さらに国防政府の失策(国民軍の俸給廃止、家賃の支払猶予の撤廃)などから、抗戦意識の衰えていない首都では共和派を核としたパリ・コミューンが成立する。これに対して、ティエールは徹底した実力行使で臨み、「血の一週間」が終わる5月28日までに、コミューンを完膚なきまでに壊滅させる。この鎮圧は国民の多くに支持され、共和制の支配に安心感を与えたのである。

 パリ・コミューンを片付けたティエールは次に賠償金問題の解決に力を注ぐ。賠償金50億フラン(当時のフランスの国家予算の2~3倍)を支払うために、彼は応募者にきわめて有利な国債を利用する。とくに一回目の71年6月の国債募集には約40億フランが集まった。最終的にフランスは予定より一年半早く賠償金を払い終え、先に述べたように1873年9月18日に念願のドイツ軍撤退を実現する。

 ティエールは1871年8月に共和国大統領に就任し、しだいに保守的な共和主義のほうに舵を切っていった。そして1873年5月には「君主制は不可能」だから共和制のほうが好ましいと述べるまでにいたる。この発言は「ボルドー協定」違反であるとされたことから、1873年5月24日に不信任案が可決され、ティエールは大統領職を去っている。

 1872年8月に制作された諷刺画「出産=ひと安心」は以上のような歴史を背景としてしている。懸案であった賠償金の一部が支払われたことを、女性の出産にかけて描いているのである。タイトルの délivrance は「出産」のほかに「苦痛などからの解放」の意味がある。フランスが国債によって金の袋に包まれた子どもを「出産」し、賠償金問題解決に向けて努力するティエールがほっとしているのを暗示している。ただ絵では金の袋に「410億」41milliards と書かれている。小数点の打ち損じだろうか、それとも誇張してわざと賠償金の額を大きく書いているのだろうか、それはわからない。

 また前景、ティエールの足元に集まっているのは、左からパリ伯(正統王朝派)、ナポレオン3世(ボナパルト派)、ドーマル公(オルレアン派。彼はルイ16世の五男で、 I-5 「コンデ公、謎の自殺」(2)に登場 )である。これら諸勢力は、ティエールの失政を期待していたものの、彼が賠償金をうまく返還し、信任を集めたことに失望の色を隠せないでいる。とくに真ん中のナポレオン三世はその象徴である「鷲」と一緒にしょげかえっている。諷刺画を描いたアンドレ・ジルは共和派に属していた。彼は王政や帝政の復活をうかがう勢力の落胆ぶりを揶揄しているのである。

 ところが「出産=ひと安心」はそのままのかたちでは発表されなかった。検閲に引っかかってしまったのである。ジルが修正を施して『エクリプス』1872年8月4日号に掲載されたのは以下のようなものだった。

アンドレ・ジル「出産=ひと安心」検閲版

 検閲された諷刺画によくあるタイプの修正である(「ぼかし」「モザイク」の手法は日本の映画でもおなじみだ)。しかし、雲に隠れ、上半身を隠した3人についていえば、まず下半身を見ただけで真ん中の猛禽を連れた人物がだれかは一目瞭然だ。そこからの類推で当時の読者なら左右の人物が誰か簡単に特定できたと思われる。

 ついでにもう一つ、「出産=ひと安心」の一週間前に発表されたジルの諷刺画を挙げておこう。1872年7月28日号の『エクリプス』に掲載された「けっこうな状況ですな、万事順調です。出産は間近ですよ」だ。ここでは出産の近いフランス女神をティエールが診察している。「けっこうな状況」situation intéressante とは賠償金返還のための国債募集がうまく進んでいることを示しているが、この表現には「妊娠している」という意味もあり、掛詞になっているのである。


2014年5月25日日曜日

I-5「コンデ公、謎の自殺」(2)

 タレーランにはフーシェール男爵夫人に近づきたい理由があった。復古王政になって、彼のナポレオン時代の行動、特にアンギャン公の処刑が問題となったからである。すでに述べたようにアンギャン公はコンデ公の一人息子である。1804年、バーデン=バーデンに亡命していた彼は、統領政府の第一執政ナポレオン・ボナパルトの暗殺計画に加わった嫌疑で、越境したフランス軍に捕らえられ、3月にヴァンセンヌで銃殺された。

 アンギャン公殺害の指示を出したのが誰なのか正確にはわからないのだが、首謀者のひとりがタレーランだという説が有力だ。ナポレオンも1809年に「アンギャン公逮捕の決断をさせたのはタレーランである。わたしはそんなことは考えてもいなかったのだ。彼がライン川沿い[バーデン=バーデン]に滞在していることなどまったく大したことでないと思っていたし、彼をどうしようという計画も持っていなかった」と述べている。
アンギャン公の肖像

逮捕されるアンギャン公

ジョブ『銃殺班を前にしたアンギャン公』

 タレーランは、コンデ家の最後の末裔であるアンギャン公を亡き者にして、ナポレオンに敵対する王党派の士気を挫こうとしたらしい。ところが復古王政になると、王家に連なるアンギャン公の処刑に関わったことが彼の政治的立場を危うくしかねなかった。そこで、タレーランは第一復古王政が始まる1814年に、関係書類をすべて破棄している。さらに彼は事件との関わりをこう説明し始めた。1804年にアンギャン公逮捕の計画を知るとすぐ、彼の元に危険が迫っていることを知らせる手紙を送ったのだが、残念ながら間に合わなかった、と。彼はことの真相をアンギャン公の父コンデ公に伝え、理解を求める必要があった。こうしてタレーランは、フーシェール夫人を成り上がり女と内心馬鹿にしながらも、彼女を厚くもてなして喜ばせ、コンデ公との面会をうまく取りつけた。そしてコンデ公に、自分は処刑事件に関わっていないばかりか、なんとかしてアンギャン公を救おうとした、と力説したという。

 一方、フーシェール夫人にとっても、タレーランと親しくなることにメリットがあった。彼をとおして夫人はオルレアン公(後の国王ルイ=フィリップ)夫妻と親しくなって、ルイ18世の宮廷に上がることを望んでいたからだ。はたして彼女はうまく宮中に出入りすることができるようになった。しかし気性の激しい夫人はある日、夫婦喧嘩をしたとき腹立ちまぎれに、実は自分がコンデ公の愛人であるという事実を夫にぶちまけてしまった。6年間のあいだ騙されていたフーシェール男爵が怒って真実をあちこちで言いふらしたため、ルイ18世はソフィーを宮廷から閉めだしてしまった。

 その後、一時期ソフィーはイタリアへ別の男に逃避行をする。この幕間劇ののち、再びタレーランとの関係が生まれるのは、1827年になってからのことだ。コンデ公は70歳を超えているのに、嗣子がいないばかりか、まだ遺言書もつくっていない。ソフィーはこのことに焦りを感じ、タレーランと組んでこの問題を解決しようとする。二人の利害は一致しているのである。ソフィーは、彼とオルレアン家の強力な後ろ盾によって自分の財産分与を確実なものとし、さらにふたたび宮廷に出入りすることを夢見ていた。またタレーランとしては、コンデ公の莫大な財産をオルレアン家に持っていきたいと考えて、ソフィーの影響力を利用したかった。

 では誰を相続人とするのか。血縁関係から言って、国王シャルル10世の孫で王位継承権を持つボルドー公アンリ・ダルトワ(1820年生まれ)がまず挙げられる。シャルル10世の子で王太子となるはずだったベリー公は同じ1820年に暗殺されていた。しかし当時、王位継承権を持つ者は私的財産を相続することができないという規則があり、ボルドー公は除外されてしまう。とすれば、オルレアン公ルイ=フィリップの五男ドーマル公(1822年生まれ)が考えられる。コンデ公はドーマル公の大叔父(コンデ公の妻がオルレアン公の叔母にあたる)であるし、彼は幼少時のドーマル公の代父を勤めているのである。

 コンデ公の財産のほとんどをドーマル公に相続させる代わりに、一部をフーシェール夫人に与えるという遺言書が、本人の知らぬ間に、タレーランとソフィーを中心にしてつくられていった。次にこの二人とオルレアン公夫妻が協力して、コンデ公を説得にかかる。自らの死を前提にした話が自分抜きで進められていたことにコンデ公は腹をたてたというが、それにしてもフーシェール夫人のなりふり構わぬ働きかけは凄まじかったようだ。愛情をかたにとった甘い懇願と脅迫めいた言葉、そしてたびたびの口論。親しい友人への告白によれば、コンデ公はこの愛人の執拗さにはほとほと閉口したようだが、70歳の彼には、もはやソフィーとの生活を精算する気力は残っていなかった。

 こうして根負けしたコンデ公は、1829年ソフィーに与えるサン・ルー、ボワシー、モンモランシーの城と領地などの不動産と現金200万フラン(現在の貨幣価値で20億円)のほかは、すべてをドーマル公に譲る遺言書にサインをしたのだった。またソフィーの宮中伺候についていえば、オルレアン公の強力な働きかけによって、シャルル10世は1830年1月に、ソフィーの参内を禁止した前王ルイ18世の決定を撤回した。ソフィーの夢はかなったのである。

 ところがこれで終わりではなかった。30年7月に革命が起きて、民衆の暴動や恐怖政治の再来を恐れるコンデ公の心は激しく揺れ始める。彼はイギリスへの亡命を本気で考え始めたのだった。しかも、王家の傍系であるオルレアン公が、ブルボン本家のシャルル10世をイギリスに追い払うかたちで国王の座についたことを、同じ一族であり、王位の正統性を重視するコンデ公がどう思っただろうか。ソフィーとルイ=フィリップの心配はそれだけではなかった。シャルル10世が玉座から追われるということは、孫のボルドー公が王位継承権を失ったということであり、ボルドー公がコンデ公の相続人となる可能性が浮上してきたことを意味する。ソフィーと国王ルイ=フィリップはコンデ公が遺言書を書き換えることを恐れていたのだった。事実、国王はコンデ公の亡命を「どんな対価を払っても」(à tout prix) 思いとどまらせなくてはならない、とソフィーに書き送っている。そして8月27日のコンデ公の「自殺」が起きる。

 その後の事件捜査では、フーシェール夫人に嫌疑がかけられたものの、結局コンデ公の死が犯罪性を帯びていることは証明できず、彼は自殺したと断定された。当時の警察は聞き取り調査が中心で、現在のように客観的な科学捜査ができたわけでもなかったし、また捜査が長引けば7月王政政府にも累が及びかねないので、嫌疑不十分で事件は幕引きとなったと思われる。このように書くといかにも故殺が隠蔽されたかのように思える。しかしルイ=フィリップの手紙のことば à tout prix にしても、取りようによっては軽くも重くも、いかようにも解釈できることばであって、結局事件は闇のなかである。

 ついでに言えば、自殺説、他殺説のほか、もうひとつ別の説もあった。それはコンデ公とフーシェール夫人が首を締めて性的快楽を得る危ないプレイをしていて事故が起きたという説である。若いときからコンデ公の退廃的な性生活は有名だったようで、毒舌で有名なボワーニュ伯爵夫人は「女性にたいする彼の強い関心は、彼がサロンでの集まりを毛嫌いしていたことと相まって、まっとうな生活というにはあまりに程遠い暮らしをすることになった」と述べている。だが当時の貴族の性的放縦はよくあることで、コンデ公が特殊な例というわけでもない。性的遊びの度が過ぎて死んだという説は面白いが、それこそ証明不可能な説だろう。

 決定的証拠がないコンデ公の「自殺」はいくらでも憶測が可能な事件であったし、時の国王が絡んでいることで、さらに人々の好奇心は刺激された。この機会に、ルイ=フィリップを王位簒奪者と考える正統王朝主義者たち、そして革命を横取りされたと感じている共和主義者たちはこぞって、「金の亡者」ルイ=フィリップが裏で糸を引いて、コンデ公を殺害させたと喧伝した。I-3 「なぞなぞ」(3)で首に紐がついているのはそういうわけなのである。

 最後にこの事件の後日譚を紹介しておこう。事件後、フーシェール男爵夫人は表舞台から身を引いた。それと同時に、自らにとって忌まわしい思い出の場であり、また詮索好きの目が集まるサン=ルーの城館を、彼女は更地にして分割売買してしまった。1837年に帰国したソフィーはロンドンで慈善事業に精力を注ぎ、1840年に亡くなっている。

 また莫大な財産を相続したドーマル公は、2月革命後、亡命中のイギリスで「歴代コンデ公の歴史」などの歴史的な著作を発表したり、第三共和政下に下院議員も務めたりした。そして有名なコレクターでもあった彼は、1884年にシャンティイと蒐集した美術コレクションをフランス学士院に寄付している。ドーマル公は1844年に両シチリア王国の王女マリ=カロリーヌ・ブルボンと結婚し、7人の子どもをもうけていたが、84年の段階で彼には財産を引き継ぐ妻も直系の子孫もいなくなってしまっていたのである。いずれにせよ、今あるシャンティイの城とあの美術館が残っているのはドーマル公のお陰ともいえるだろう。

1840年18歳のドーマル公

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この項を書くにあたっては、Dominique Paladilhe, Le prince de Condé, histoire d’un crime, Pygmalion, 2005 などを参照した。
 
(この項、終わり)

I-5 「コンデ公、謎の自殺」(1)


I-4「なぞなぞ」(2)で触れたコンデ公の死について詳しく説明しよう。1830年8月27日の朝、自室で首を吊って死んでいるコンデ公が発見された。なぜこれが大きな問題になるのか。彼は当時フランス第一の大土地所有者で、その総資産は6600万フラン(現在の貨幣価値でほぼ660億円)だった。しかし74歳のコンデ公に遺産を相続する子どもはいなかったし、長く別居していた妻はすでに1822年に死亡している。その代わり、彼には、40歳になるイギリスの庶民で元高級娼婦だったソフィー・ドーズという怪しげな愛人がいた。結局、コンデ公の死後、莫大な財産はその一部がソフィーに、そして大半がルイ=フィリップ国王の五男ドーマル公のものとなったのである。

 コンデ公の「自殺」には事件当初から多くの疑惑が投げかけられていた。はたして彼はほんとうに自殺をしたのか。財産目当てに何者かによって自殺の偽装がなされたのではないか。コンデ公の怪死にはソフィーだけでなく、国王ルイ=フィリップも加担しているのではないか。この事件にはいかにも疑惑の名ににふさわしい登場人物と道具立てが揃っている。現代でも歴史ミステリーの番組があればとりあげられるような未解決事件なのである。

 事件のあらましを述べる前にコンデ公を紹介しておこう。ルイ6世アンリ・ジョセフ・ド・ブルボン=コンデは1756年生まれ、フランスの王家に連なる名家の貴族である。彼の莫大な財産の多くは大コンデと呼ばれるルイ2世(1621−1686)の母シャルロット・ド・モンモランシーから来ている。コンデ公は、シャンティイ、モンモランシー、ボワシーにある城館と広大な領地のほか、ブルボン宮(現在、国民議会がある)なども所有していた。妻は、フィリップ平等公の妹バティルド・ドルレアン(ルイ=フィリップの叔母)だが、彼女の奔放な性格もあって、二人は早くから別居している。二人の間にできた子がのちのアンギャン公で、彼は1804年にナポレオン暗殺計画を企てたとして処刑されている。


コンデ公
サン=ルーの城館

 さてコンデ公の死である。事件が起きたのは、パリの北約20キロのモンモランシーにあるサン=ルーの城館である。城館はもともとナポレオン3世の父ルイ・ナポレオン(オランダ王)の所有だったが、それを1816年にコンデ公が購入したものである。1830年8月27日の朝、召使が主人を起こそうと寝室のドアを叩くと返事がない。不審に思った家族たちが鍵のかかった部屋に押し入ってみると、公は、ハンカチを二枚つなぎ合わせたものをロープ代わりにし、それを窓のイスパニア錠(両開き窓の締め具に用いる錠)にひっかけて首吊り「自殺」をしているのが発見された。
自殺したコンデ公

 コンデ公の自殺の大きな原因とされたのが、死の一か月前、7月27日に起きた7月革命だ。この革命によってブルボン家の復古王政は崩壊し、シャルル10世夫妻はイギリスに亡命する。コンデ公は革命の勃発によって自分の身が危うくなることを感じ、将来を悲観したのではないかというのである。事実、7月革命後に王となったルイ=フィリップは、コンデ公の元に妻のマリ=アメリーを送って、彼の身の安全を保証したり、レジオン・ドヌール勲章を授けたりして、彼をなんとかなだめようとしている。

 しかし「自殺」を疑う情況証拠を数多くあった。まず1番目に、彼は篤実なキリスト教徒で自殺を否定していたし、自殺は臆病者の行為と公言していた。2番目に、死の前日、城館に招待したコセ=ブリサック伯爵に滞在を伸ばすように勧めていた。3番目に、死の前夜コンデ公は翌朝8時に自分を起こすよう召使に指示していた。4番目に、首を吊ったコンデ公は、版画にもあるように、足が床につく状態で死んでいた。自殺者が苦し紛れに足で立とうとすることを考えれば不自然な死に方である。5番目に、もともとコンデ公は足が悪く、階段を上がり下りするとき召使の助けを必要としていたのに、窓のイスパニア錠(床から1.95Mのところにあった)にハンカチを掛けるため椅子に登ったというのも不可解である。6番目として、彼はかつて狩猟をしたとき落馬して、左腕が頭より上にあげられなかったし、右手は1793年の決闘で負傷して以来不自由だった。つまりハンカチをロープ状にして、イスパニア錠にかけることは難しかったというのだ。7番目は照明用の蠟燭である。発見されたときに蠟燭の減り具合からして、彼は部屋全体を照らす2本の蠟燭を消し、枕元の蠟燭だけを使っていたと思われるが、わざわざ枕元の蠟燭だけの薄暗いなかで、自殺の準備をするだろうか、というのだ。最後の8番目として、コンデ公は7月革命後にサン・ルーの村にも大きな暴動が起きるのではないかと心配していたが、むしろコンデ公と村の住民の関係は良好だったという。

 自殺に見せかけた謀殺であるとすれば、まず疑われるのが愛人のソフィー・ドーズである。ではソフィーとはいったいどんな女性か。彼女は1790年にイギリスのワイト島で生まれたが、父は漁師であると同時に煙草やアルコールの密売にも関係していた。彼女はその後ロンドンに上り、コヴェント・ガーデンの舞台に立ちながら高級娼婦をしていたらしい。コンデ公はフランス大革命以来イギリスに亡命し自由奔放な生活を送っていて、1810年にソフィーとロンドンで知り合う。王政復古後、彼がパリに帰ってくると、ソフィーもフランスにやってくる。イギリスの娼婦と暮らしているという風評を避けるため、そしてソフィーを宮廷にあがらせるために、コンデ公は、愛人を自分の私生児ということにして、副官のアドリアン・ヴィクトール・フーシェールと結婚させる。そして彼に男爵の爵位を手に入れさせ、 彼を部屋づきの侍従に据える。こうして男爵夫人となったソフィーは宮廷に出入りできるようになった。
ソフィ・ドーズ

 コンデ公のそばで暮らすようになったソフィーは彼にたいして絶大な影響力を振るうようになった。コンデ公に頼み事があるときは彼女をまず通さなければならなかったほどである。この時期きわめて興味深いのは、タレーランとの接触である。シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(1754−1838、彼の名前の発音は「タルラン」とすべきようだが、ここでは日本語表記の慣用に従って「タレーラン」と書くことにする)は、絶対王政、共和政、帝政、復古王政、7月王政とつぎつぎに政体の変わる半世紀をみごとに生き延び、常に国の要職についていた。彼が「風見鶏」と呼ばれる所以である。1778年にルイ16世によってオータンの司教に任じられたあと、革命期には国民議会議長、恐怖政治時代にはアメリカに亡命していたものの、総裁政府時代、統領政府時代、第1帝政期をつうじてたびたび外務大臣を務める。復古王政期になると外務大臣に返り咲き、ウィーン会議では巧みにフランスの国益を守った。過激王党派のシャルル10世が支配する時代には失脚するが、7月王政期にはロンドン大使を1834年まで務め、38年に死亡する。

 「コンデ公、謎の自殺」の後半部分は次回に続くが、最後にタレーランの諷刺画をひとつ見ておきたい。その名も「6つの頭を持つ男」(『黄色い小人』誌、1815年4月15日号)で、作者不明だが、描いたのはドラクロワ(タレーランの息子ではないかという説もある)とも言われる。

「6つの頭を持つ男」(1815)
足に障害を持ち、「びっこの悪魔」(同名のサッシャ・ギトリの映画も有名だ)と呼ばれたタレーランは、この諷刺画で、6つの頭を持った男として描かれている。時代順に、左奥の大きな司教冠をかぶった頭が「名望家万歳」(ルイ16世時代)と叫んでいるのから始まって、右回りに「自由万歳」(革命期)「第一執政万歳」(統領政府時代)「皇帝万歳」(第一帝政期)、そして「国王万歳」(第一復古王政期)と言っている。そして最後の左を向いた頭が「万歳!・・・・」とあるのは、次に誰の治世があっても万歳を叫ぶ用意があることを皮肉っている。右手に持つ笏杖は、彼がオータンの司教であることを示し、左手の風見鶏は彼が「風任せ大公」(prince de Bienauvent) と呼ばれたように、時々の政体に応じて彼の政治的態度が変わることを示しているのである。

(この項、続く)