2014年8月29日金曜日

IV. 「オスマンのパリ大改造と諷刺」(2)

街並みの破壊
 工事による市街の破壊と混乱は、この2例にとどまらない。オスマンによる道路整備では、まず公共事業に必要な道路と沿道の土地を収用し、つぎに道路整備を行い、そして付加価値がついて値上がりした沿道の土地を再売却するか、そこに建物を建設するという方式をとった。つまり、日本の80年代によく行われたように、開発利益を次の事業に投資するいわば「自転車操業」だった。こうした開発で、諷刺画にはみるも無残に壊されていく沿道の建物が描かれていく。

 ここで思い出されるのは、ゾラの『獲物の分け前』で描かれたパリの街の無残な姿だ。第7章でサッカールはパリ市の補償金審査会のメンバーとして、シャロンヌ(現在の11区)あたりに妻のルネが所有する土地の評価を行なうのである。ここで問題となっているのは、プランス・ウジェーヌ大通り(現在のヴォルテール大通り)の貫通工事に伴う土地収用なので、時期としてはオスマンの都市改造計画の第2期にあたっている。サッカールは3人のメンバーとともに、歩いて工事の行われる地域を調査する。

 「この男たちが踏み込んだ道はすさまじかった。(…)道の両側には、鶴嘴でなかば壊されながらも、壁がまだかろうじて立っていた。背の高い建物が大きく裂けて、大きな安物家具の壊れた抽斗のように宙吊りになっている。」(ゾラ『獲物の分け前』中井敦子訳)

 ドーミエも、オスマンの第一期工事の頃にあった同じような光景を描いている。図版8に描かれているのは、右上に見えるサン=ジャック・ラ・ブーシュリーの塔の位置からして、おそらくリヴォリ通りの建物の取り壊しであろう。キャプションには「あの塔を立ったままにしているのももっともな話さ。あいつを壊すには気球に乗んなくちゃなんないからな」(図版8『シャリヴァリ』1852年12月7日)とある。右下には狭い谷間のようになった建物のあいだを人々が通っているところが描かれており、改造以前のパリの街路のありようがわかる。
図版8

住環境の改善
 この採光のできない狭い道路に関して、ドーミエは続く1852年12月7日号の『シャリヴァリ』(図版9)に、なかなか諷刺の効いた一枚を発表している。右側には荒っぽい工事の様子が描かれているが、ここでの眼目は左の夫婦の会話だ。「これで俺の植木鉢にも陽があたるぞ。ようやく植木が薔薇の木かニオイアラセイトウか、わかるってもんだ。」この家の主人は付近の建物が取り壊されたことで、急に陽当りがよくなったことを喜んでいる。これまで自分の植木鉢に植えられているのがなんの植物なのかわからなかったというのはにわかに信じられない言葉だが、それほど日が当たらないので植物がまるで成長しなかったというくすぐりである。

図版9

 オスマンの都市改造の目的のひとつは、住環境の改善にあった。それまで中世以来の幅の狭い通りの両側に高い建物が建てられていた。日光は届きにくく、空気がよどみ、水はけの悪い不衛生状態のなかに人々は暮らしていた。その結果のひとつは1832年に起きたコレラである。オスマンは、大通りの道幅を一律20メートル、沿道の建物は高さ20メートルの6階建て(しかもバルコニーは美観を考えて奥行き73センチメートルの狭さ!)と定めたが、同じような考えのもとに幅の広い街路を貫通させることによって、パリの美観を整えたり、暴動を抑止する軍隊を急行できるようにすると同時に、住環境の改善を計った。この時期為政者にも学者にも「流通」という考えが支配的で、人々や軍隊を効果的に移動させ、水や空気や日光をスムーズに循環させ(狭い街路に風車のかたちの扇風機を巡らせるという考えもあった!)、はては売春制度の整備によって精液をうまく処理させようとまでしたのだ。

 まさにドーミエの諷刺画はこうしたオスマンの都市改造がもたらす恩恵を諷刺的に描いている。図版では右側にセーヌ川沿いの建物が描かれていて、正面の建物が取り壊されることで眺望が開けたことがうまく示されている。もっとも、破壊されている地区からパリの河岸がこのように見えるはずはない。パリの中心部に丘のような小高い場所はないから、右に見える建物との関係からすれば、この老夫婦が住んでいるアパルトマンは、ノートルダム大聖堂の最上部あたりの高さになくてはならない。ドーミエは高低差を誇張することで、急に開けた視界の広がりを誇張してみせたのである。

 ついでにもうひとつ、注目してみたいのは、覆いもなく足場もない原始的な解体作業だ。それで、『お笑い新聞』に描かれたように、上から壊した建物の残骸が降ってくることもあったようだ。(図版10、ギュスターヴ・ドレの諷刺画、『お笑い新聞」1853年1月8日号)
図版10

生活環境と街の風景
 さて、急ピッチで進む工事は、住民の生活環境、そして街の風景を一変させる。まず見てみたいのは1852年12月27日号の『シャリヴァリ』に掲載されたドーミエの版画である(図版11)。キャプションには「さあさあ、旦那がた、急いで起きなせえ。今度はあんたらの番ですぜ。旦那がたの家を壊さなくちゃならないんで」とある。ここにあるのは、住民の意志とは無関係に強権を奮って改造計画を無理やり進めるオスマンにたいする痛烈な皮肉である。妻が暗い室内で穏やかな眠りを貪るのと対比的に、明るい外ではすでに解体工事が着々と進められている。ふつうなら高い建物の窓に現れるはずのない人間の姿に、寝ているブルジョワの夫は驚いているが、ドーミエは逆光のなか、亡霊のように見える労働者の姿を、お得意の光と闇の効果によって見事に描いている。
図版11

 工事中の街の風景といえば、さきほど『獲物の分け前』で触れた箇所で、補償金審査会のメンバーのひとりが目にするところにも現れている。「彼は絶えずきょろきょろ見回していたが、鶴嘴で真っ二つにされた家を目にすると、道の真ん中で立ち止まり、その扉と窓を仔細に観察した。」彼は自分が昔5年間暮らした家を発見したのだった。「それは、6階にある、かつては中庭に面していたらしい小さな部屋であった。壁に大穴が開き、中が丸見えで、一部はすでに壊されていて、黄色い大きな枝葉模様の壁紙が破れて風になびいている。左手には、からっぽの箪笥があって、青い紙が張ってある。そして傍らには竈の穴があって、煙突の端が見える。」そんなことに興味のないサッカールの傍らで、男は「ああ!わたしの部屋もかわいそうに! こんなになって」と嘆いているのである。

 これと似たようなことをドーミエも描いている。図版12(『シャリヴァリ』1853年1月3日号)は、廃墟となった建物に郵便物を届けに来た郵便配達人の驚きである。「管理人にお声をかけてください、か。まず管理人を見つけなきゃならん。これは容易ならんことだ。」郵便配達人の前にあるのは、管理人室の窓だけで、あとはすべて破壊されてしまっている。
図版12

 その混乱をもっと推し進めたのは、ドーミエが1852年12月10日号の『シャリヴァリ』(図版13)に「パリの解体工事の影響」と題して発表した諷刺画で、ここでは住み慣れた住民に起きた悲喜劇を描いている。真ん中で立ち尽くしているのはおそらく破壊されてしまった家の主人であろう。彼の隣の召使が鞄やら帽子箱などを担いでいるところを見ると、旅行から帰ってきたところのようだ。主人は「それにしてもわたしが住んでいるのはたしかにここなんだが。それに妻の姿も見当たらないぞ!」と知らぬ間に我が家が解体されてしまった男の茫然自失を描いている。
図版13


都市改造の裏面
 さて、街路は広くなったし、街並みも美しくなった。しかし、今まで人が住んでいたところに道ができるわけであるから、沿道の建物は部分的に削り取られる。シャゴ描く『お笑い新聞』1854年3月4日号にはそれがおかしく描かれている(図版14)。右手に座った男はこの部屋の住人で、「ねえ君、ぼくは椅子のうえで寝ているんだよ。自分の家がひどく後退させられたもんだから、部屋が小さすぎて今じゃベッドひとつさえ置けなくなってしまったからね。」とぼやいている。
図版14

 また新しく道路が整備されて、沿線の価値があがると、その家賃も値上がりする。同じ『お笑い新聞』1854年3月4日号にシャゴは、値上げを要求するアパートの大家を描いている(図版15)。「お分かりでしょうが、いまや、当方の家はリヴォリ通りに面することになりましたので、家賃を3000フラン値上げせざるをえないのです」3000フランといえば、現在の平価で約300万円だ。もちろんこれほどの値上げはありえないので、法外な家賃をつきつけられたことを大げさに書いてみたのだろう。この諷刺画に描かれている右側の店子は、立派な部屋着を身につけているし、奥には絵画も架けられているので、裕福なブルジョワだろう。しかし、一般的には、開発事業のあおりを食らって、家賃の高騰に耐え切れない低所得者層の住民はパリ周辺の新開地に移り住みようになったのである。
図版15
[この項続く]

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