2014年8月29日金曜日

IV-1 「オスマンのパリ大改造と諷刺」(1)

オスマンのパリ大改造計画
 第二帝政期にナポレオン三世が断行したパリ市街の大改造は、中世以来の古い街並みを近代都市にふさわしい相貌にかえる大事業であった。その中心となったのがセーヌ県知事ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン(1809−1891)で、彼が行った改造事業は、1852年から59年までの第一期と59年から67年までの第二期に大きく分けられる。第一期では、南北を走るストラスブール大通り、セバストポール大通り、サン=ミシェル大通り(右岸のセバストポール大通りは北に行くとストラスブール大通りになり、左岸に行くとサン=ミシェル大通りになる)、東西を走るリヴォリ通り、それと接続するサン=アントワーヌ通りなど、パリを縦横に貫く幹線道路を貫通させ、それにあわせてパリ中心部が整備される。そして第二期では、中心部から周縁部へと向かう広場(現在のレピュブリック広場、エトワール広場、シャイヨー、エコール・ミリテールなど)とそこから放射状に伸びる街路のネットワークがつくられていくのである。

 この首都をありようを一変させる大規模な都市改造が進行するあいだは、当然のことながら、街並みが大きく変わるばかりでなく、住民たちの生活に大混乱を引き起こす。ここではパリの道路整備にかんする諷刺画をいくつか見てみたい。まずその前に、パリ大改造の旗振り役オスマンの諷刺画を挙げておこう。

 オスマンの諷刺画は、普仏戦争直後に発表された『帝政の動物園』(ポール・アドル画)に載っているものだ。この版画集は副題に「20年にわたりフランスを貪ってきた反芻動物、両生類、肉食動物、その他の税金泥棒動物からなる」とあるように、第二帝政を支えてきた政治家たちの身体を動物に変身させて、その「悪行」を厳しく非難している。ちなみに、ナポレオン三世は禿鷹で描かれており、そのキャプションには「禿鷹(臆病、獰猛)と書かれている(図版1)。また皇后のウジェニーは、「間抜け」を表す「鶴」となり、キャプションには(気取り、愚鈍)と書かれている。
図版1

 さてオスマンは、漆喰鏝を右手に握った巨大なビーバー Castor になって、パリの建物をつくっている(図版2)。ビーバーはダムづくりでも知られているように、昔から水利工事や水利施設の専門家の象徴となっている。ここでは建設工事一般を象徴であることは明らかだ。また右に「ネラックの墓地」Cimetière de Nérac と書かれた墓が見える。ネラックはボルドー近くにある都市で、オスマンはここで1832年から1840年まで郡長をやっていた。なぜ墓になっているのかは不明だが、ひょっとして、上昇志向の強い彼が、自分のキャリアのためにネラックを利用するだけして捨てたことを示しているのであろうか。版画につけられたキャプションは「精力的、金銭欲」である。15億フラン(現在の平価で約1兆円)を投じた大事業にオスマンの個人的な蓄財はからんでいないようだが、当時は彼がこの改造で大きな利益を得ていたという噂は絶えなかった。
図版2


オスマンの「外科手術」
 オスマンの都市改造の大きな柱は、「外科手術」に喩えられるように、密集した建物とそのあいだを迷路のように縫って走る狭くて水はけの悪い路地を大胆に切り裂いて、両側に整然とした建物が並ぶ幅の広い街路を生み出すことだった。それは、ゾラの『獲物の分け前』(1871年)のなかにも描かれている。この小説はオスマンの首都改造計画に乗じて、主人公のアリスティッド・サッカールが不動産の投機によって莫大な利益をつかもうとする話である。野望に燃えるサッカールはある夕暮れ、モンマルトルの丘から妻のアンジェールに新道建設の説明を熱く語りながら、最初の道路網はこう、2番目の道路網はこう、そして3つ目はこうと、指で眼下に広がるパリを「容赦ない苛立った手で」切り続けていく(第2章)。

 この切開の大胆さは以下に掲げる航空写真からも明らかだろう。写真は、オペラ座の裏手から始まるラファイエット通りを撮影したものだが、北東へ一直線で伸びている通りは約3キロの長さがある。この通りの完成にオスマンはたいへん満足したようだが、なるほど「外科手術」という表現がひとめで納得できる。(図版3)
図版3

 諷刺は近代的な都市として一新されるはずのパリではなく、解体される首都の爪あとに関心を向ける。たとえば、エドモン・モラン Edmont Morin (1824-1882) は、パリに次々押し寄せる解体屋たちの群れを描いている(図版4。発表年代不詳)。パリの街は「ルテチア」(パリの古名)という女神が横たわった姿で表されている。「ルテチア」は頭飾りにいくつもの風車を指していることから、まず頭部はモンマルトルの丘を表していることがわかる(もっともモンマルトルがパリ市に併合されたのは1860年になってからのことであるが)。またお腹のベルトを模しているのはパリを囲む市門のひとつだ。これは首都防衛のために建設されたもので、いちばん新しいものは1841年から44年のあいだ、ティエールが建設したものだ。そこをめがけて、手押し車を押す者、鶴嘴を担いだ者などが押し寄せてきている。解体と金儲けに群がる人々を描くこの諷刺画がオスマンの企ている計画の破壊的な側面を強調していることは明らかだ。
図版4


 リヴォリ通りとシャンゼリゼ大通り
  先にも述べたパリの幹線道路の整備として、まずリヴォリ通りが挙げられる。チュイルリー庭園やルーヴル美術館の北側を沿って走るこの通りは、オスマン改造計画の第一期工事によって東西に伸ばされ、最終的にはパリの中央を3キロにわたって横断するメインストリートとなる。ドーミエ描く「新しいリヴォリ通りの眺め」(図版5、1852年12月24日『シャリヴァリ』)には工事が始まった時期の様子が描かれている。手前には並木がなぎ倒されたり、道が掘り起こされたりするその上を、男の子を連れた母親が難儀して歩いている。その向うには馬を引く者、歩く者、荷を担ぐ者、そして馬車が通り、大混雑を極めている。絵の中心の馬車に乗っている男は窓を開けて御者に向かって話しかけているが、おそらくは渋滞に苛立って、もっと急ぐように命じているのではないだろうか。また後景には道路を拡充するために沿道の建物を壊している様子がさりげなく描かれている。
図版5


 この諷刺画からは大混雑と喧騒がみごとに伝わってくるが、テオドール・ド・バンヴィルも回想しているように、リヴォリ通りを横断するのはまことに一苦労だったようだ。「5時にルーヴル百貨店の前のリヴォリ通りを渡ろうとするのは、中央アフリカの人喰い人種のなかを探検するよりももっと危険な企てであることは間違いない」(『パリに生きて』1883年)。ギュスターヴ・ドレはこのバンヴィルのことばと符合する諷刺画を描いている。真ん中の男が、馬車のあいだを縫うようにしてサン=トノレ通りを走り抜けている。(図版6,『お笑い新聞』1853年1月8日号)
図版6


 コンコルド広場を介してリヴォリ通りと繋がるシャンゼリゼ大通りもこの時期に整備された。シャンゼリゼ大通りは1834年ころから整備され始めたが、とりわけ1855年に開催される万国博覧会のためにそれは本格化した。そのために、街路はもちろんのこと、万博のメイン会場となる豪華な「産業宮」(正式には産業と芸術宮」)が建てられた。ここは55年だけでなく、78年、89年の博覧会場として使われたし、また1857年から1897年まで毎年行われる官展(サロン)の会場ともなった。ドーミエの「シャンゼリゼでの楽しい散歩」(図版7,1855年5月10日『シャリヴァリ』)にはまさにこの時期のシャンゼリゼが描かれている。建設工事に従事する労働者の間をブルジョワのカップルが散策をしている。労働者の担ぐ大きな木材に頭をぶつけられそうになったり、スカートにシャベルで土をかけられる様子は、建設ラッシュの慌ただしさをうまく図像化すると同時に、自由な時間を享受できるブルジョワと、そうしたレジャーを楽しむ暇もない労働者の対立を鋭く捉えている。
図版7

 19世紀前半のシャンゼリゼは、「社交界の散歩道であり、庶民が集まる場所でもあった」と言われるようにあらゆる社会階層の人間が訪れる場だった。しかし、55年の万国博覧会を境として、美しく整備されたシャンゼリゼは上流階級の独占物となり、「モード、アクセサリー、滑稽さ、豪華さ、そして虚栄心の出会いの場」(『散歩のハンドブック』1855年)に変貌していくのである。

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