メスにおける返答
さて最後は、国王ルイ=フィリップが手にしている鏝に注目してみたい。鏝に盛られた漆喰には「メスにおける返答」Réponse de Metz と書かれている。この「メスにおける返答」とはなにか。メスはドイツ国境に近いフランス北東部の都市で、パリから330キロのところにある。1831年6月7日から7月1日まで、ルイ=フィリップ国王は息子2人と商業・公共工事担当大臣のダルグーをともなって、フランス東部を巡る旅を行い、モー、シャトー=ティエリー、シャロン、ヴァルミー、ヴェルダン、メス、ナンシー、リュネヴィル、ストラスブール、コルマール、ミュルーズなどの都市を訪問した。ここには、共和主義的な影響力の強い東部フランスを巡幸することによって、反政府的な動きに楔を打つ目的もあった。
ところでこの巡幸中、メスを訪れたとき、ちょっとした事件が起きる。市議会を代表して演説を国王の前で行ったメスの市長は、国には「貴族院議員資格の世襲制廃止」という解決すべき問題が残っており、この特権を消し去らなければならないことを強調した。また外交問題として、ロシアによって自由を蹂躙されているポーランドを助けることを求めた。「貴族院議員資格の世襲制廃止」とは、7月革命後、1814年の憲章を改訂するさいに激しい議論を巻き起こした問題だ。1830年の憲章では、制限選挙制によって選ばれる議員からなる代議院と、国王の指名によって選ばれる議員による貴族院の二院制をとり、貴族院議員には終身または世襲の身分が与えられた。「貴族院議員資格の世襲制」は左派からは、アンシャン・レジームの容認しがたい残滓の象徴として捉えられ、その制度の廃止が強く求められた。結局、世襲制は1831年10月10日、代議院において永久的な廃止が採択される。メス市長の発言はこの問題の議論が行われていた時期にあたり、共和主義的な立場から決断を国王に促したものと言える。
またポーランド問題についてはすでに I-3 「ワルシャワの秩序は保たれている」で述べたように、フランス政府はヨーロッパを支配する列強との関係を重視して、ポーランドへの不介入政策を続けた。しかしこの事なかれ主義に不満を持つ共和派は圧制からの解放を願う諸国民を支援することこそが革命の理念にかなっているとして、ポーランドの独立を支援するために軍を派遣することを求めていたのである。
市長の発言にたいして、国王は「市議会に、高度な政治的問題を討議をする権限はない。この権利を有するのは代議院と貴族院だけである。したがってわたしは、あなたの演説のこの部分に答える必要はない。このことはフランスと諸外国の外交関係についてあなたが述べたことにも適用される。外交関係についても同じく市議会は議論する権利はない」と、市長の質問をにべもなくはねつけた。
また国民衛兵司令官の代理と称するひとりの大尉が国王の前に進み出て、演説原稿を読み始める。彼が「貴族院議員資格の世襲制廃止」について触れようとしたとき、国王は大尉の話を止め、彼の手から原稿を奪い取ってこう言った。「もう結構だ。国民衛兵は政治問題に関わるべきではない。それは国民衛兵に関係ないことである。彼らが意見を述べる必要はない。(・・・)軍隊は討議などしなくてよろしい。討議は禁止されている。わたしはこの件についてこれ以上話を聞きたくない」と、国民衛兵が政治に首を突っ込むことを厳しく戒めた。
これが「メスにおける返答」の概要である。事件は国王が越権行為をたしなめたエピソードにすぎないように見えるが、裏にはひとつの政治的背景があり、それを共和派の諷刺画は批判しているのである。それは国の方針の大きな転換である。ルイ=フィリップは1830年11月2日に銀行家で「運動派」の政治家ジャック・ラフィットを首相に指名し、内閣を組織させる。「運動派」にとって改訂憲章は通過すべきひとつの段階にすぎず、それを起点により民主主義的な政体の実現をめざしていた。ラフィットが革命運動に寛容な政治姿勢をしていたことに加えて、彼に政治的な手腕が乏しかったせいもあり、パリでは騒乱や示威行動が絶えなかった。とくに1831年2月14、15日には、サン=ジェルマン・オークセロワ教会で行われたベリー公追悼のミサをきっかけとして大規模な暴動が起こり、それは地方にも波及した。ベリー公はアルトワ伯(のちのシャルル10世)の長男でブルボン家の将来を背負って立つ人物と目されていたのだが、1820年に暗殺された。正統王朝主義者たちはベリー公追悼ミサを口実として、その長子であるシャンボール伯の存在をアピールしようとしたと言われる。それにたいして共和主義者たちはブルボン朝復活を目論む動きと考えて、激しく反発したのである。
こうした大規模な騒擾の頻発を前にして、1831年3月13日、ルイ=フィリップはラフィットに代えて、「抵抗派」のカジミール・ペリエを首相に据える。「抵抗派」にとって革命は憲章を守るための運動にすぎず、彼らは革命の継続に「抵抗」した。ペリエは、国家権威の立て直しと公共秩序の確立をめざして、豪腕を発揮した。パリで日常化するデモにたいしては断固とした措置をとり、4月10日に集会を規制する法律を制定し、さらに4月15日、16日のデモには消防隊の放水器を使って、参加者を蹴散らした(1-4 「なぞなぞ」(3)を参照)。
また、ラフィット内閣の「行政的な無政府状態」を解消しようとし、綱紀粛正を断行した。ペリエの考えでは、それまで公務員は上司に従う習慣を失っていたし、政府も上意下達を徹底できなかった。また公務員は政府の方針に従わず、民意におもねっていたからこそ、社会的な混乱が続いていた。その原因のひとつは、左派の牙城、愛国的人民協会 Société patriotique et populaire の存在であると考えた。この組織の中心にはラファイエット、デュポン・ド・ルール、ラマルク将軍、オディロン・バローなどのお歴々がおり、そこに反対派の新聞、多くの軍人、司法官、官僚がなども加わり、地方にも広いネットワークを形成していた。ペリエはこれにたいし、公務員、軍人がこれらの全国組織に参加することを禁止し、違反した国務院評定官のオディロン・バローを罷免し、ラマルク将軍の軍指揮権を剥奪し、メス市長ブーショット(彼がつくった愛国組織から全国組織が生まれた)の職を解任した。
上に述べた国王の「メスにおける返答」は、こうしたペリエ首相の強権的な締めつけ方針のなかに位置づけられる。少なくとも共和派はそのように理解していた。国王の返答は、権力機構の厳然としたヒエラルキーのなかでの自由な議論、提案を否定するものだったが、問題はそこにとどまらず、国民の自由な意見を抑圧しようとする意図がかいま見えたと思われたのであろう。また、市長と大尉が述べたのは「貴族院議員資格の世襲制廃止」と「ポーランド支援」という、まさに共和派が強く要求し、体制側が実現に難色を示ししていた喫緊の問題である。これにたいするルイ=フィリップのにべもない反応は、国王の保守化の現れと考えられたといえよう。
もう一度、「壁の塗り替え」の諷刺画に戻ろう。偽の左官屋ルイ=フィリップは右手に「メスにおける返答」という漆喰を使って、共和主義的な要求や革命理念の書かれた落書きを消そうとしている。もはや意味は明らかだ。「メスにおける返答」に象徴される保守的態度が7月革命をなきものにしようとしている、ということである。
ところで、この「壁の塗り替え」は『カリカチュール』に掲載されるとすぐに差し押さえられ、不敬罪で裁判にかけられる。その理由と裁判の経緯については次回に述べてみたい。
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