2014年9月2日火曜日

IV. オスマンのパリ大改造と諷刺(3)

 最後に、19世紀中葉のパリの舗道にかんする諷刺画を見てみたい。パリの舗道を改良する試みは、オスマンの計画のなかで始まったものではないが、首都の街路整備と平行して進められたものであり、パリ大改造と深く結びついている。

 パリの舗道は長らく23cm角の砂岩を敷き詰めてできていた。しかし19世紀前半には産業の発展、人口の都市流入によって、それまでになかったさざまな不都合が生じてくる。まず第一に交通量の増大や道路に負荷のかかる重量車の通過のせいで、敷石の痛みが激しくなった。敷石のメンテナンスには費用がかかり、また維持には熟練した技術者が必要だったのである。第二に、石を敷き詰めた道路はでこぼこになっているために、馬車や荷車に負担がかかった。振動によって車の傷みが早まるだけでなく、ゴムタイヤやショックアブソーバーのない馬車は乗客にとって快適ではなかった。またスピードを求める時代が来ているにもかかわらず、馬車は速度を上げることができなかった。さらに馬車の振動は騒音をまき散らし、沿道の住民の不満を募らせていた。

マカダム舗装
 その解決法のひとつとして採用されたのがマカダム舗装 macadamisage だった。この舗装は1815年にイギリス人のジョン・マカダム John McAdam が考案したもので、フランスには1820〜30年代に導入された。さらに都市に使われるようになるには1840年代を待たなくてはならなかった。1855年の万国博覧会のときのシャンゼリゼ大通りを描いた図版を見ると、上流階級の馬車が、マカダム舗装された「産業宮」の前を疾駆している様子がよくわかる。(図版1、ドロワ「シャンゼリゼ大通りと産業宮の入口、1855年の万国博覧会」)
図版1

 マカダム舗装とは、粒の大きい砕石を道の基礎部分に敷き、その空隙を埋めるような小さい粒の砕石をうえに重ね、最後に非常に細かい砂を敷き詰めてローラーで固める方法である。マカダム舗装のメリットは、まず表面が均一なので、敷石のような部分的損耗がすくないこと、水分を吸収しない性質を持っているので、舗装の基礎部分の強度が落ちないこと、敷石とちがって路面に弾性があるので道路と車両の傷みが少ないことが挙げられる。また舗道のメンテナンスには多くの人的資源が必要だが、敷石の場合のような専門技術が必要はない。

 利用者の側から見ると、車のがたつきが減少し、スピードも出せるので、快適な移動が可能になる。それと同時に、振動による騒音も減るので、沿道住民にとってもメリットは大きかった。しかし一方で、マカダム舗装は水を浸透させにくいので、水はけが悪く、雨が降ると道は泥だらけになり、乾燥すると埃がひどくなった。ドーミエなどの諷刺画家がマカダム舗装を標的にしたのはこの点である。

マカダム舗装の泥
 まず、泥から見てみよう。図版2はドーミエが1854年12月28日号の『シャリヴァリ』に発表したものだ。おしゃれに着飾ったパリのブルジョワたちが泥だらけの道を横断している様子が描かれている。面白いのは、3人とも靴を汚さないように苦労して足を前に出している。しかし、むしろ楽しそうにダンスのステップを踏んでいるかのように見えてしまう。キャプションには「パリジャンたちはだんだんマカダム舗装のメリットを認めるようになってきている」とあるように、版画はこの強いられたダンスを皮肉っているのである。

図版2

 泥のなかを歩けば、靴やズボンの裾が汚れる。図版3(『シャリヴァリ』1854年1月27日号)はそれに向けた諷刺である。「ブールヴァールにて―イギリス人がマカダム舗装を発明した理由がいまになって納得できたぞ。靴墨をじゃんじゃん買わせようってことにちがいない」。英国人の陰謀というわけである。
図版3


 またギュスターヴ・ドレにも同じテーマの版画がある。彼は、人物とぬかるんだ街路を黒いシルエット、横殴りの雨をハッチングで描くというシンプルな方法で描いていて、泥と雨が見事に表現している。(図版4,『お笑い新聞』1853年1月8日号)

図版4



パリの泥
 しかし、パリの泥はなにもマカダム舗装に始まったものではない。ルイ・レオポルド・ボワイイが1803年から1804年ころに描いた「にわか雨―通ったら御払いください」(図版5)にもすでにパリの泥は見られる。雨が降るとパリの街路は一面泥の川になってしまう。そこで、歩道と歩道のあいだに車輪のついた板を渡し、有料でそこをわたらせる商売が生まれた。正面の夫婦と子どもと女中が利用しているのはそれである。また右奥には女性を担いでいる男が描かれているが、これは板を使わない手っ取り早いもうひとつの商売である。

図版5

 文学のなかにも、1819年あたりのパリを舞台にしたバルザックの『ゴリオ爺さん』に印象的な泥が出てくる。野望に燃える主人公のラスティニャックはおしゃれをしてレストー夫人の邸宅に徒歩で向かう。馬車を持っていない彼は「靴を泥で汚さないように細心の注意をはらいながら歩いていた」のだが、レストー夫人にどんな気の利いた話をしようかと夢中になり「つい泥をはねあげてしまったので、パレ・ロワイヤル広場で靴を磨かせ、ズボンにブラシをかけさせないわけにはいかなくなった」。また彼の人生の指南役であるヴォートランは、若者にアドバイスをするとき、「パリの泥」を引き合いに出している。ラスティニャックが「それにしてもあなたがたのパリという街はまるで泥沼ですね」というと、ヴォートランは「おまけに奇妙な泥沼だよ(…)その泥沼を馬車で乗りまわせば紳士、歩いて泥だらけになるやつは悪人ということになっているのだからな」(高山鉄男訳)と、パリの泥を比喩にまで使っている。雨が降った首都が泥だらけになるのは、道路の舗装方法の問題ではなく、むしろ下水処理システムがうまく機能していなかったせいである。
 さて、ドーミエは、マカダム舗装の泥を避けるすばらしい方法を提案している。それは竹馬である。見てのとおり、パリの人々は雨の日に、マカダム舗装をしたブールヴァールを歩きまわる快適な方法を発見した、というわけだ。(図版6、『シャリヴァリ』1850年6月29日号)

図版6

 しかし、ここからドーミエの空想はさらに広がる。竹馬という交通手段が思わぬ問題を引き起こすのである。図版7にあるように(『シャリヴァリ』1850年7月11日号)、人々があまりに背の高い竹馬を使って上を歩くものだから、通りの店に客が立ち寄らなくなり、ブールヴァールの商売があがったりになってしまうのだ。図版では「マカダム・システム」と高札の立てられた大通りに面したお菓子屋の店主が浮かぬ顔をして、舗道のはるか上を歩く人々を見上げている。

図版7
(この項続くそ

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