「壁の塗り替え」『カリカチュール』1831年6月30日号 |
I-4「なぞなぞ」(1)で簡単に触れた「壁の塗り替え」le Replâtrage (『カリカチュール』1831年6月30日)を詳しく見てみたい。この版画では左官屋の姿をしたルイ・フィリップが「7月29日通り」の汚れた壁を塗りなおしている。「7月29日」とは7月革命が起こった日であり、落書きの「自由のために死す」「自由は世界を駆け巡るであろう」「市庁舎での将来構想」などは、革命の精神や、ルイ・フィリップが国王になったときに示した政治姿勢を表している。それが今やすっかり消されつつあるというのだ。面白いのはルイ・フィリップの姿である。彼は労働者風のスモックを着て左官に化けているが、胸元から軍服が覗き、また庶民にふさわしくない華奢な靴を履いている。庶民の代弁者の触れ込みだった国王の正体見たり、というわけだ。
「自由のために死す」
では細部を見て行きたい。ルイ=フィリップが漆喰で消そうとしている落書きにはなにが書かれているのか。一番上には「自由のために死す」la mort pour la libérté とある。これに説明の必要はないだろう。7月革命の際に多くの市民が、シャルル10世政府を打倒し、自由を回復させるために死を賭して戦ったことを指している。
「市庁舎での将来構想」
その下に書かれているのは、「ラファイエット」Lafayette、「市庁舎での将来構想」Programme de l’Hôtel de Ville(その大部分は消えている)である。「市庁舎での将来構想」とは、国王になる直前のオルレアン公が大革命の象徴的人物ラファイエットと会談をして取り決めたといわれるもので、立憲君主制のもとで共和主義的な政策を実現していくという構想であったようだ。「であったようだ」と書いたのは、この構想が現実にあったのかなかったのか、7月王政発足当時から大きな議論になっていたからである。
革命を賭けた「栄光の3日間」の翌日1830年7月30日に、銀行家であり政治家でもあるラフィットと連携したジャーナリストのティエールとミニェが、革命の混乱を早期に収拾すべくオルレアン公を国王にしようと考え、いち早く次のような文書をパリ中に貼りだす。
「シャルル10世はもはやパリに入ることはできない。彼は民衆の血を流したからである。しかしフランスが共和国となれば、我々は恐ろしい内紛に直面することになるであろうし、ヨーロッパの諸外国との不和を招くであろう。オルレアン公は革命の大義に身を捧げた王族である。オルレアン公はこれまで一度として我々に刃を向けて戦ったことはない。オルレアン公はジェマップにいた。オルレアン公は市民王である。オルレアン公は戦場で三色旗を掲げていた。そして今もなお三色旗を掲げることのできるのはオルレアン公だけである。我々が彼以外の者を望むことは絶対にない。オルレアン公は、我々がこれまでに願い、考えていたかたちの憲章を受け入れている。彼が王冠を受け継いだのは民衆からである」
これと連動するように30日午後になると、共和派の動きを恐れる議員たちが議会に集まり、オルレアン公に国王代理を受け入れを要請する決議を行なう。こうしてお膳立ての整った30日深夜、革命派と反革命派の争いに巻き込まれることを嫌って郊外に身を潜めていたオルレアン公は、ヌイイからパリの住居であるパレ・ロワイヤルに帰ってきた。そして翌日、彼はパリ市庁舎でラファイエットと会談を行なうことにする。自分が国王になるためには市民の前に姿を現すことがぜひとも必要だったからである。
一方、パリ市庁舎に陣取った革命派たちは、ラファイエット将軍を担いで共和制を実現しようとしていた。しかし当のラファイエットはシャルル10世に引導を渡したものの(「いかなる和解も不可能であり、王家の支配は終わった」という7月29日の発言)、彼は必ずしも共和国の成立を無条件に支持していたわけではない。国民の意志を尊重してアメリカ式の共和主義体制を実現したいと考えていたが、その一方で、平和が必要な今このときに共和制を無理強いして、国内が混乱に陥り、諸外国が介入してくることを恐れていた。ラファイエットは決断力の乏しい人だったようだが、このときも、彼は大いに迷っていた。自分の友人でもあり、オルレアン公に近いジェラール将軍や議員のバロー、モーギャンたちから王制の採用を働きかけられていたし、さらに7月31日の朝、アメリカ公使ライヴスの訪問を受け、共和制になればフランスのこれまでの40年の努力が無駄になると忠告されたのだった。
そして31日の午後に、オルレアン公がパリ市庁舎に赴いてラファイエットとの会談が実現する。その場では、同日の早い午後に議員90人が署名した声明(混乱から脱するための法整備を早急に行なうこと、オルレアン公を国王代理とすること、憲章を順守することなど)が読み上げられた。その会談後、ふたりはバルコニーに出て、市庁舎広場に集まる人々の前に姿を現した。市民の歓呼のなか、ふたりは抱き合い、抱擁を交わす。これがシャトーブリアンのいう「共和派のキス」baiser républicain である。この抱擁によって、オルレアン公は、ラファイエットの、つまり共和派のお墨付きをもらい、国王への道筋をつけることができたのである。
市庁舎バルコニーでの抱擁 |
国王自身、のちの1832年6月6日に、ラフィット、オディロン・バロ、共和派のアラゴーとの会談のなかで次のように明言している。「市庁舎での将来構想のことがよく話題に上るが、それは卑劣なでたらめである」。32年6月1日に死んだラマルク将軍の葬儀において「約束が公式に受け入れられたのに、卑劣にもそのあと忘れられた」などという者がいたのには憤りを覚える。国民が求めたのは憲章であった。そもそも「わたしはなにも約束する権利は持っていなかったし、事実なにも約束はしていない」。
しかし、ラファイエットや共和派の人々は、「市庁舎での将来構想」という約束は、「公式に受け入れられたのに、卑劣にもそのあと忘れられた」と考え、しだいに保守化していく国王ルイ=フィリップの姿勢を革命にたいする裏切りとして非難し続けたのである。
(この項続く)
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