2014年6月15日日曜日

I-6 「壁の塗り替え」(2)


 「自由は世界を駆けめぐる」
 ルイ=フィリップの左肘の後ろ辺りに書かれている落書きには「自由は世界を駆けめぐる、7月29日」la liberté fera le tour du monde, 29 juillet とある。これは読んだとおり、7月革命が大革命と同じく、フランス国内のみならず他国の国民に大きな力を与え、自由を求める運動として世界に広がっていったことを意味している。それが消されようとしているということは、I-3 「ワルシャワの秩序は保たれている」で見たとおり、ルイ=フィリップの政府がヨーロッパの保守的な列強に配慮して対外的な事なかれ主義をとり、ポーランド、イタリアなどで起きた自由主義運動を見殺しにしたことを示している。いわば革命的伝統をフランスは捨てたということである。

 ところで、この「自由は世界を駆けめぐる」la liberté fera le tour du monde という表現は当時よく使われていたようで、大革命期に愛唱されたと思われる「赤いフリギア帽の旅」Les Voyages du bonnet rouge というシャンソンにも「ついに、パリから日本まで、アフリカからラップランドまで平等は根づいていく。暴君たちよ、運命の賽は投げられた。自由のフリギア帽は世界を駆けめぐるだろう」Le bonnet de la liberté fera le tour du monde という歌詞が入っていた。歌詞のなかで、辺境にまで平等が広まったことを示すのに、「日本」Japon と「ラップランド」 Lapon で韻を踏ませている。日本人としては苦笑せざるを得ないが、それはともあれ、自由と平等を掲げたフランスが先頭に立って世界中にそれを広めていく、というところに国の矜持があった。いわば「世界の中心で自由を叫ぶ」というわけである。その詳しい分析はのちに譲るとして、こうした理想に導かれるようにして、7月革命後には『シルエット』(1830年12月6日号)にその名もまさしく「自由は世界を駆けめぐる」と題された版画が、そして1848年2月革命のときには、ソリユーの「社会民主的な世界共和国」が描かれる。


「自由は世界を駆けめぐる」『シルエット』1830年12月6日号

ソリユー「社会民主的な世界共和国」(1848年)


「クレドヴィルは泥棒だ」
 またルイ=フィリップの腰のあたりの落書きには、「クレドヴィルは泥棒だ」Crédeville est un voleur と書かれている。これはルイ=フィリップと関係のない落書きである。「クレドヴィル」という落書きは1820年代末になって、「ブージニエの鼻」le nez de Bougnier と同じように、パリの壁という壁によく書かれたという。ついで1830年になるとルイ=フィリップの諷刺である「洋梨」の絵が現れ、クレドヴィル、ブージニエの鼻、洋梨は、落書きの3大トリオとなって、パリの街に氾濫した。さらに、シャルル・モンスレによれば、これらの落書きはパリばかりでなく、なんとエジプトのピラミッドにも3つ揃って描かれたという。

 クレドヴィルにはいくつかの説がある。ひとつは、画家の卵たちの悪ふざけである。生真面目な画家クレドヴィルをからかってやろうと、画家仲間たちがいたるところに赤い石墨で「泥棒クレドヴィル」と書いて、当局の注意を惹こうと考えたらしい。また別の説では、最初にクレドヴィルの名前をパリの壁に落書きしたのは、少し頭のおかしいプラム売りの女だった。彼女は帝政期にクレドヴィルと婚約していたのだが、ナポレオンの没落後、男と生き別れになって精神に変調をきたしたらしい。彼女は婚約者と再会したい一心でパリの壁という壁にクレドヴィルという名前を書いたという。さらに、クレドヴィルは犯罪者で、逮捕後にジャン・ヴァルジャンのように強制労働をしていたという説もある。徒刑場をまんまと脱獄した彼は、その威信にかけて捜索する警察を尻目に、フランス各地で「泥棒クレドヴィル」と落書きして当局をからかったのだという。日本の盗賊や暴走族に倣っていえば「クレドヴィル参上」というところではないだろうか。

「ブージニエの鼻」 
 ことのついでに「ブージニエの鼻」についても書いておこう。こちらはもっとよく事情がわかっている。ブージニエ Bouginier は本名アンリ・ブージュニエ Henri Bougenier (1799−1866)といい、19世紀の初頭、新古典主義のグロのアトリエで学んだ画家で、サロンにも何度か出品したあと、写真家に転向したらしい。彼が友だちの画家たちにからかわれたのは、その大きな鼻のせいだった。当時のことを回想するかたちのエッセイ『パリのイギリス人』という本によれば、ブージニエは、同時代の文学者のシャルル・ラッサイ、国立自然史博物館の館長を務めたアントワーヌ=ロラン・ジュシユー、俳優のイアサント、そして、7月王政の政治家で『カリカチュール』の標的にもされていたダルグーと並んで、大きな鼻で有名だったという。

シャルル・ラッサイ

アントワーヌ=ロラン・ジュシユー(ダヴィッド・ダンジェ作)

イアサント



 なぜだがわからないが、パッサージュ・デュ・ケールの入り口にはかつてブージニエの諷刺肖像が掲げられていた。図を見るとなるほどからかわれるのも無理はない。そこには落書きの流行に欠かせない「華」があるではないか。
パッサージュ・デュ・ケールのブージニエ


 それにしても、「クレドヴィル」「ブージニエ」のどちらも画家たちの悪ふざけという点が目を惹く。なるほど当時「画学生の悪ふざけ」farce de rapin ということばがあるくらい、美術学校の学生たちは冗談やら洒落やらいたずらが好きだったようだ。バルザックの『ゴリオ爺さん』にも次のような一節がある。「最近発明されたディオラマは、(…)ほうぼうの画家のアトリエで、語尾にラマをつけて話をする冗談を生み出した。」そして小説の舞台となる下宿屋ヴォケール館では、常連の若い画家を中心に、「健康」のことを「サンテラマ」、「すごい寒さ」のことを「フロワトラマ」などという言い回しが流行ったりするほどになった。
 もっとも画家となれば、「ブージニエの鼻」だとか「洋梨」などのカリカチュアはお手のものだ。若い画家たちが人の特徴を捉える諷刺画に手を染めるのも不思議はない。後年パリ・オペラ座を設計することになるシャルル・ガルニエも、17歳で美術学校に入学してから諷刺画に手を染めていた。最後にそのいくつかの例を掲げて、今回の終わりとする。
「ポール・ボードリ」(シャルル・ガルニエ)

「諷刺自画像」(シャルル・ガルニエ)1850年


(この項続く)

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