2014年5月25日日曜日

I-5 「コンデ公、謎の自殺」(1)


I-4「なぞなぞ」(2)で触れたコンデ公の死について詳しく説明しよう。1830年8月27日の朝、自室で首を吊って死んでいるコンデ公が発見された。なぜこれが大きな問題になるのか。彼は当時フランス第一の大土地所有者で、その総資産は6600万フラン(現在の貨幣価値でほぼ660億円)だった。しかし74歳のコンデ公に遺産を相続する子どもはいなかったし、長く別居していた妻はすでに1822年に死亡している。その代わり、彼には、40歳になるイギリスの庶民で元高級娼婦だったソフィー・ドーズという怪しげな愛人がいた。結局、コンデ公の死後、莫大な財産はその一部がソフィーに、そして大半がルイ=フィリップ国王の五男ドーマル公のものとなったのである。

 コンデ公の「自殺」には事件当初から多くの疑惑が投げかけられていた。はたして彼はほんとうに自殺をしたのか。財産目当てに何者かによって自殺の偽装がなされたのではないか。コンデ公の怪死にはソフィーだけでなく、国王ルイ=フィリップも加担しているのではないか。この事件にはいかにも疑惑の名ににふさわしい登場人物と道具立てが揃っている。現代でも歴史ミステリーの番組があればとりあげられるような未解決事件なのである。

 事件のあらましを述べる前にコンデ公を紹介しておこう。ルイ6世アンリ・ジョセフ・ド・ブルボン=コンデは1756年生まれ、フランスの王家に連なる名家の貴族である。彼の莫大な財産の多くは大コンデと呼ばれるルイ2世(1621−1686)の母シャルロット・ド・モンモランシーから来ている。コンデ公は、シャンティイ、モンモランシー、ボワシーにある城館と広大な領地のほか、ブルボン宮(現在、国民議会がある)なども所有していた。妻は、フィリップ平等公の妹バティルド・ドルレアン(ルイ=フィリップの叔母)だが、彼女の奔放な性格もあって、二人は早くから別居している。二人の間にできた子がのちのアンギャン公で、彼は1804年にナポレオン暗殺計画を企てたとして処刑されている。


コンデ公
サン=ルーの城館

 さてコンデ公の死である。事件が起きたのは、パリの北約20キロのモンモランシーにあるサン=ルーの城館である。城館はもともとナポレオン3世の父ルイ・ナポレオン(オランダ王)の所有だったが、それを1816年にコンデ公が購入したものである。1830年8月27日の朝、召使が主人を起こそうと寝室のドアを叩くと返事がない。不審に思った家族たちが鍵のかかった部屋に押し入ってみると、公は、ハンカチを二枚つなぎ合わせたものをロープ代わりにし、それを窓のイスパニア錠(両開き窓の締め具に用いる錠)にひっかけて首吊り「自殺」をしているのが発見された。
自殺したコンデ公

 コンデ公の自殺の大きな原因とされたのが、死の一か月前、7月27日に起きた7月革命だ。この革命によってブルボン家の復古王政は崩壊し、シャルル10世夫妻はイギリスに亡命する。コンデ公は革命の勃発によって自分の身が危うくなることを感じ、将来を悲観したのではないかというのである。事実、7月革命後に王となったルイ=フィリップは、コンデ公の元に妻のマリ=アメリーを送って、彼の身の安全を保証したり、レジオン・ドヌール勲章を授けたりして、彼をなんとかなだめようとしている。

 しかし「自殺」を疑う情況証拠を数多くあった。まず1番目に、彼は篤実なキリスト教徒で自殺を否定していたし、自殺は臆病者の行為と公言していた。2番目に、死の前日、城館に招待したコセ=ブリサック伯爵に滞在を伸ばすように勧めていた。3番目に、死の前夜コンデ公は翌朝8時に自分を起こすよう召使に指示していた。4番目に、首を吊ったコンデ公は、版画にもあるように、足が床につく状態で死んでいた。自殺者が苦し紛れに足で立とうとすることを考えれば不自然な死に方である。5番目に、もともとコンデ公は足が悪く、階段を上がり下りするとき召使の助けを必要としていたのに、窓のイスパニア錠(床から1.95Mのところにあった)にハンカチを掛けるため椅子に登ったというのも不可解である。6番目として、彼はかつて狩猟をしたとき落馬して、左腕が頭より上にあげられなかったし、右手は1793年の決闘で負傷して以来不自由だった。つまりハンカチをロープ状にして、イスパニア錠にかけることは難しかったというのだ。7番目は照明用の蠟燭である。発見されたときに蠟燭の減り具合からして、彼は部屋全体を照らす2本の蠟燭を消し、枕元の蠟燭だけを使っていたと思われるが、わざわざ枕元の蠟燭だけの薄暗いなかで、自殺の準備をするだろうか、というのだ。最後の8番目として、コンデ公は7月革命後にサン・ルーの村にも大きな暴動が起きるのではないかと心配していたが、むしろコンデ公と村の住民の関係は良好だったという。

 自殺に見せかけた謀殺であるとすれば、まず疑われるのが愛人のソフィー・ドーズである。ではソフィーとはいったいどんな女性か。彼女は1790年にイギリスのワイト島で生まれたが、父は漁師であると同時に煙草やアルコールの密売にも関係していた。彼女はその後ロンドンに上り、コヴェント・ガーデンの舞台に立ちながら高級娼婦をしていたらしい。コンデ公はフランス大革命以来イギリスに亡命し自由奔放な生活を送っていて、1810年にソフィーとロンドンで知り合う。王政復古後、彼がパリに帰ってくると、ソフィーもフランスにやってくる。イギリスの娼婦と暮らしているという風評を避けるため、そしてソフィーを宮廷にあがらせるために、コンデ公は、愛人を自分の私生児ということにして、副官のアドリアン・ヴィクトール・フーシェールと結婚させる。そして彼に男爵の爵位を手に入れさせ、 彼を部屋づきの侍従に据える。こうして男爵夫人となったソフィーは宮廷に出入りできるようになった。
ソフィ・ドーズ

 コンデ公のそばで暮らすようになったソフィーは彼にたいして絶大な影響力を振るうようになった。コンデ公に頼み事があるときは彼女をまず通さなければならなかったほどである。この時期きわめて興味深いのは、タレーランとの接触である。シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(1754−1838、彼の名前の発音は「タルラン」とすべきようだが、ここでは日本語表記の慣用に従って「タレーラン」と書くことにする)は、絶対王政、共和政、帝政、復古王政、7月王政とつぎつぎに政体の変わる半世紀をみごとに生き延び、常に国の要職についていた。彼が「風見鶏」と呼ばれる所以である。1778年にルイ16世によってオータンの司教に任じられたあと、革命期には国民議会議長、恐怖政治時代にはアメリカに亡命していたものの、総裁政府時代、統領政府時代、第1帝政期をつうじてたびたび外務大臣を務める。復古王政期になると外務大臣に返り咲き、ウィーン会議では巧みにフランスの国益を守った。過激王党派のシャルル10世が支配する時代には失脚するが、7月王政期にはロンドン大使を1834年まで務め、38年に死亡する。

 「コンデ公、謎の自殺」の後半部分は次回に続くが、最後にタレーランの諷刺画をひとつ見ておきたい。その名も「6つの頭を持つ男」(『黄色い小人』誌、1815年4月15日号)で、作者不明だが、描いたのはドラクロワ(タレーランの息子ではないかという説もある)とも言われる。

「6つの頭を持つ男」(1815)
足に障害を持ち、「びっこの悪魔」(同名のサッシャ・ギトリの映画も有名だ)と呼ばれたタレーランは、この諷刺画で、6つの頭を持った男として描かれている。時代順に、左奥の大きな司教冠をかぶった頭が「名望家万歳」(ルイ16世時代)と叫んでいるのから始まって、右回りに「自由万歳」(革命期)「第一執政万歳」(統領政府時代)「皇帝万歳」(第一帝政期)、そして「国王万歳」(第一復古王政期)と言っている。そして最後の左を向いた頭が「万歳!・・・・」とあるのは、次に誰の治世があっても万歳を叫ぶ用意があることを皮肉っている。右手に持つ笏杖は、彼がオータンの司教であることを示し、左手の風見鶏は彼が「風任せ大公」(prince de Bienauvent) と呼ばれたように、時々の政体に応じて彼の政治的態度が変わることを示しているのである。

(この項、続く)

0 件のコメント:

コメントを投稿