2014年5月15日木曜日

I-4 「なぞなぞ」(2)



憲章
 背中は本のかたちをした「憲章」である。これは1814年にルイ18世が発布した憲章を1830年に改訂したものだ。これは1814年の憲章を引き継ぎながら、勅令の廃止、王権神授説の否定、「フランスとナヴァールの王」に代えた「フランス人の王」の称号の使用、カトリックの脱国教化、国旗としての三色旗の採用、そして検閲の廃止などを盛り込んだ。1830年8月7日に両院の議会で採択し、そのあと国王に推挙されたオルレアン公(ルイ=フィリップ)が憲章を順守することを約束した。
 
 ところでルイ=フィリップの背中の本には「憲章、真理、1830」という文字が見える。この3つの単語は、オルレアン公の言葉「憲章は今後、ひとつの真実となるであろう」を指している。7月革命のさなかパリ郊外のヌイイの自宅にいたオルレアン公はデュパンやティエールらの議員に懇請されて7月31日になってパリに戻ってくる。そして首都の壁に以下のような声明を貼りだすのだが、そのなかに「憲章は今後、ひとつの真実となるであろう」が出てくるのである。

   パリの住民たちよ
     現在パリに集っているフランスの代議員たちは、わたしに、首都へきて国王代理の職を務めてほしいと、伝えてきた。わたしはあなた方の危機をわかちあうことも、あなた方のような勇敢な住民のなかに身をおくことも、そして、あなた方を市民戦争や無政府状態という惨禍から守るためにあらゆる努力をすることも、ためらいはしなかった。
     わたしはパリの街に帰ってくるとき、あなたがたが(大革命以来)再び手にし、そして私自身が以前から掲げていたあの栄光の三色旗を堂々と持っていた。議会はまもなく招集されるであろう。そして法の支配と国民の権利の維持を確かなものとする方策が熟慮されるであろう。
     憲章は今後、ひとつの真実となるであろう。
                       ルイ=フィリップ・ドルレアン
                              

 「憲章は今後、ひとつの真実となるであろう」というのは、オルレアン公が、改訂される憲章がどのようになろうとも、それを必ず守ると約束した言葉である。しかし反対派から見ると、政権をとってからのルイ=フィリップは、憲章をないがしろにしているとしか思えない。特に、検閲こそしないものの、反政府系の新聞をあの手この手で規制し、事実上、報道や出版の自由を厳しく制限していった。反対派はその都度、「憲章は今後、ひとつの真実となるであろう」ということばを持ちだして、ルイ=フィリップ国王の約束違反をなじるのであった。

楽譜
 彼の左腕はフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」の楽譜でできている。これについて詩は「バルコニーで歌われた聖なるマルセイエーズがわたしの両腕を形づくっている」とある。これは先に述べた8月7日のことに関係する。この日、貴族院と代議院で議会が開かれ、改訂憲章を採択し、ルイ=フィリップ・ドルレアンを国王にすることを決めたあと、議員たちは、オルレアン公の住むパレ・ロワイヤルに向かい、この決定を彼に伝える。オルレアン公がそれを受諾すると、パレ・ロワイヤルの中庭に集まっていた人々が熱狂的に「国王万歳、オルレアン家万歳」と叫ぶ。そこで満面の笑みを浮かべたオルレアン公は家族やラフィット、ラファイエットらと連れ立ってバルコニーに立ち、民衆の歓呼に答える。人々が「ラ・マルセイエーズ」を声を限りに歌い出すと、オルレアン公も市民たちに声を合わせて歌ったのである。

 先に挙げた詩句はこの8月7日のエピソードを指している。つまりラ・マルセイエーズを一緒に歌うことによって民衆と次期国王が(仮そめのものであれ)一体感を感じたときのことである。しかし状況は国王ルイ=フィリップの保守化によって変わってしまった。そう言いたいのである。

フェルト
 版画ではルイ=フィリップの手のあたりがよく見えないのだが、詩句を読むと「腕の先には、たくさんの指の垢が染みついたフェルトが見える」とある。フェルトとは手袋のことで、国王が人々と握手を繰り返しているうちにそれが汚れてしまったことを指している。ルイ=フィリップは愛想よく誰かれかまわず握手をする人であったらしい。それは反対派の人たちからみると、「ブルジョワ王」らしく、庶民に好まれようとして気さくな人間を演出していた、ということになる。

 オルレアン公は1830年7月31日、革命の象徴ラファイエットとともにパリ市庁舎のバルコニーに立ち、市庁舎広場に集まる民衆に自分が革命精神を引き継いだことをアピールしてみせた。そして自宅のパレ・ロワイヤルへの帰り道、人々の歓呼のなか、居並ぶ多くの市民たちと握手を交わしたという。こうした次期国王の行為は当時にあってはおどろくべきことで、保守派の要人カジミール・ペリエに「君主制は共和制のまえに身を売った」と嘆かせたのだった。

 握手については、おそらく共和派寄りの人間が書いたと思われる『現代小史―フランスで起きた主なできごとを教師が生徒にかたるお話』(1832年)にも次のようなことが書かれている。「(ルイ=フィリップが国王に選ばれた)2日後、先生と外出した生徒たちは、新たな称号をもらったばかりの君主が道を通るところに出くわした。王が有象無象の民衆のところまで降りてくるのを見た彼らの驚きはいかばかりだったろうか。しかもあちらこちらの人々と親しげに握手までしたのだ!しかし、まもなく印刷物や掲示物を読んだとき、彼らの驚きはさらに大きくなる。王は、呼びかける相手を友達扱いすることになるからだ。「王様がぼくたちのお友達だって!」と(.... ) 無垢な心を持つ子どもたちは何度も口にした。」

 この文は、握手を振りまき、(今風にいえば)「タメ口」をきいて庶民派の王を気取るルイ=フィリップを彷彿とさせる。しかし一般民衆に親しげな態度は親譲りと言えるのかもしれない。父のフィリップ平等公も気さくに庶民と握手を交わし、耳障りのよい約束を連発したので、一般大衆には非常に評判が高かったという。
 結局、反政府の立場の共和派からすれば、ルイ=フィリップは、父と同じように庶民に愛されようと媚びへつらいながらも、いっぽうで強面の政治を続けていたということになる。

 最後に握手が現れる諷刺画をいくつか見ておきたい。
1)『カリカチュール』1832年10月4日号に掲載された庶民と握手をするルイ=フィリップ。この諷刺画の解説には、「『握手をするのが好きなところをみると、お前はあの例のホラ吹きに似ているなあ』と庶民の男が言っているのかもしれない」と書かれている。
庶民と国王の握手


2)『カリカチュール』1832年5月3日号の「道徳的、政治的猿まね」。後ろを向いたルイ=フィリップが、屑拾い、国民軍兵士、子どもと握手を振りまいている様子を猿の世界で例えている。
「道徳的・政治的猿まね」

3)『カリカチュール』1832年5月31日号「政治的シャラントン病院」。シャラントンにある有名な精神病院に収容されている政治家たちを描いている。彼らの政治的な姿勢をひとつの偏執狂として描いている。ルイ=フィリップはもちろん誰かれかまわず握手を求める狂人として描かれているが、左右にいる(三色旗の帽子をかぶった)共和派の人間に避けられている。
「政治的シャラントン病院」

(この項、続く)

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