2014年5月7日水曜日

I-4 「なぞなぞ」(1)

「なぞなぞ」

1834年1月9日号の『カリカチュール』に発表された「なぞなぞ」Enigme は、アルチンボルドの絵画を真似て、さまざまな物の寄せ集めで国王ルイ=フィリップの全身像をつくっている。国王の身体をかたちづくるひとつひとつのパーツは、それぞれが象徴的な意味を帯びて、大きな意味での国王の政治姿勢を皮肉るものとなっている。しかし、この諷刺画は特定の政治的問題や事件を扱っていないので、パーツ同士にほとんど関連性がなく、それは細部の意味を知る助けにはならない。

 したがって、国王の身体の各部分に込められた意味を読み解く手がかりは、諷刺画の下に添えられた「なぞなぞ」と題された詩だけである。しかも詩句そのものが思わせぶりたっぷりで、説明的というよりも暗示的に書かれている。読者はこの二重の謎を前にして、頭を絞らなくてはならないのである。

 こうした謎解き図像が可能になるためには、体系的な図像言語が背後になければいけない。諷刺画「なぞなぞ」が発表されたのは1834年1月9日。『カリカチュール』が発行されてほぼ4年、それまで349枚の諷刺画が出され、個々の政治家や政治的事件などが、この新聞独自のアトリビュートや象徴的な形象と結びつけられて繰り返し使われるうちに、ひとつの意味の体系性が徐々に形作られていた。『カリカチュール』の読者ならこのなぞなぞが読み解ける仕組みである。ここでは、図像に現れた細部をひとつひとつとりあげて、その解読を試みてみよう。

洋梨、傘、山高帽と蜂
 肖像画の人物が国王ルイ=フィリップであることは、その頭が洋梨になっていること、また傘と三色旗のついた山高帽を持っていることからわかる。傘と山高帽は「ブルジョワ王」ルイ=フィリップの愛用品だ。ことに、国王は王杖のかわりに傘を持っているのではないかと思われるほど、いつでも傘を手にしていた。そこを反体制派の諷刺画はからかっていたのである。

 また洋梨が当時、国王ルイ=フィリップの象徴であったことはよく知られている。その洋梨の上端と裾のほうに陰影がつけられているのは、髪の毛を示しているのだろうが、また一方でこの果物が熟していることをも暗示している。フランスのことわざに「洋梨が熟したら、あとは落ちるしかない」La poire est mûre, il faut qu’elle tombe. という表現がある。すでに腐りかけた7月王政の政権は倒れる運命にあるというわけだ。このことは洋梨のまわりに蜂が飛び交っていることからもわかる。熟れ過ぎた洋梨に虫が止まっている諷刺画はオーギュスト・ブーケ描く「洋梨と種子」(『カリカチュール』1833年7月4日号)にも見られる。洋梨のまわりに集まる蜂は、政権にうるさくつきまとう反体制派の新聞を指している。

「洋梨と種子」

鵞ペン
 では耳のあたりに載せている鵞ペンはなにか。これについて詩を読むと、「侵略[連合軍のパリ入城のこと]のあと、フランス国民への宣言に署名したペンと同じもの」と書かれている。これは1815年にナポレオンがワーテルローの戦いに破れた結果、イギリス、オーストリア、ロシアを中心とする連合軍がパリに進駐し、ルイ18世を国王とする復古王政が成立したとき、ルイ=フィリップ(当時はオルレアン公)がとった行動と関係している。

 フランス大革命のとき、オルレアン公(1793年までは「シャルトル公」)は、父のフィリップ平等公と同じく大革命を支持して、ヴァルミー、ジェマップの戦いに革命軍の士官として参加した。しかし1793年以後、貴族である彼は共和国から追放されると同時に、革命時代の行動によって亡命中の王党派から憎悪され、スイス、スウェーデン、アメリカ、イギリス、シチリア(このころナポリ王の娘、マリ=アメリと結婚)を転々として、1814年にフランスに帰国する。この間、イギリスでオルレアン公は革命軍への参加を「若気のいたり」と自己批判してブルボン本家への忠誠を誓っている。これにたいしてルイ18世は寛容にも彼を赦して、王政復古後には宮廷への出入りを認めたばかりか、その借金も肩代わりしてやっている。ところが、オルレアン公は、ナポレオンがエルバ島を脱出して政権をふたたび握り、ルイ18世が失脚すると、ブルボン家が1789年、1814年と二度にわたって王座から転落した原因を探る文書を発表する。その中で彼は、フランスの王をブルボン家ではなく、分家であるオルレアン家に代えることを匂わせる提案を行っているのである。

 こうした従弟のやり方にルイ18世が激しく怒ったので、オルレアン公は前言を撤回しなくてはならなくなった。それが1815年、フランス国民にたいして行った宣言である。「正統王位継承権の原則は今日、フランスのみならずヨーロッパの平和を保証する唯一のものである。革命のときほど王位継承権の力と重要性を強く感じさせたものはなかった。そうなのだ、フランス国民よ、自分がフランスを統治することにでもなれば、わたしもそれを誇らしく思うだろう。もっとも、それは、名家であるブルボン家が断絶してわたしが王に指名されるという、わたしにとって大きな不幸が起きた場合の話ではあるが。」
 こうした宣誓にもかかわらず、第二王政復古を実現してパリに戻ったルイ18世の怒りは収まらず、オルレアン公はすぐに帰国することができなかった。しかし国王の弟アルトワ伯(のちのシャルル10世)のとりなしによってなんとか彼はフランスの土を踏むことが許されたのだった。

 諷刺画に戻ろう。このフランス国民への宣言がなぜ国王ルイ=フィリップを皮肉る材料になるのか。それは、宣言の内容と7月王政の成立過程が矛盾するからだ。かつてルイ=フィリップ(オルレアン公)は、宣言のなかで、正統王位継承権こそが重要であると強調していた。しかしルイ=フィリップ国王は成立直後からその正統性のなさを反対派、とくにブルボン家を支持する正統王朝派から指弾されていたのである。

 7月革命が起きたとき、国王シャルル10世は事態を収拾するために退位し、王位を当時10歳だった孫のボルドー公(シャンボール伯アンリ・ダルトワ、アンリ5世)に譲り、オルレアン公を国王代理に任命した。しかし革命後の騒擾が続き、社会の安定化が急務となる状況のなか、ブルボン家の意向を無視して、オルレアン公は議会の要請を受けるかたちでそのまま国王となってしまう。これまでのように正統な手続きで王位を継承したのではなく、いわば国民に押し上げられるかたちで国王となった。ルイ=フィリップが「フランス人の王」「バリケードの王」と呼ばれる所以である。したがって反体制派、とくにブルボン家を中心とする正統王朝派からしてみれば、ルイ=フィリップは王位簒奪者ということになる。

 つまり皮肉なことに、ルイ=フィリップは「革命のときほど王位継承権の力と重要性を強く感じさせたものはない」と言いながら、1830年の革命では「正統王位継承権」を無視している。また、自分が国王になる条件として、ブルボン家が断絶するという不幸が起きることを挙げていた。しかし彼は事実上シャルル10世とアンリ5世を国外に追放し、ブルボン王朝を断絶させることによって、自らが王座に着いた。諷刺画は、ルイ=フィリップが口先だけの人間、約束を違えてたやすく他者を裏切る人間であることを暗に示している。

ハンカチ
 次のアイテムは首に巻かれたハンカチである。これについて詩句では「わたしは自分の喉に襟をつける代わりに、最後のコンデ公の歴史的なネクタイを当てる」とある。これは、巨万の富を持っていた独身貴族コンデ公が7月革命の直後、ハンカチでつくった紐を使って首吊り自殺をした怪事件のことを指している。事件がなぜルイ=フィリップと関係するのか、それには長い説明がいるので、別の機会に述べることにしよう。

金の袋、左官屋の鏝、モルタル用の槽
 ルイ=フィリップの腹は1000フランの詰まった袋、左手は左官屋が使う鏝、右手は曲尺からできている。1000フランの袋はいかにルイ=フィリップが金に執着し、吝嗇だったかを示している。シャトーブリアンも、ルイ=フィリップが愛しているのは金と家族だけだと吐き捨てるように述べている。

 左手の「左官屋が使う鏝」とお尻になっている「モルタル用の槽」は『カリカチュール』(1831年6月30日号)に掲載された「壁の塗替え」という諷刺画のことを指している。それは左官屋に化けたルイ=フィリップが壁の落書きを鏝できれいに塗り消そうとしている図である。版画の分析は別の機会に譲るが、落書きにはルイ=フィリップが政権発足時に約束した民主主義的政策などが書かれている。国王の約束違反をここでは揶揄しているのである。

「壁の塗替え」


曲尺と設計図
 右手の代わりになっている水準器つきの曲尺は、彼のエプロンとなっている設計図と共に、当時政権が進めていた分離要塞の建設のことを指し示している。ここでいう分離要塞とは、パリを囲む徴税請負人の城壁(1784~1790年に建設)の外側に設置された一連の要塞のことである。パリはほかの都市とちがって、1670年以降、都市防衛のための連続した城壁が存在しなかった。かつてない繁栄と平和を築いたルイ14世がそれまであった城壁は不要として破壊してしまったからである。そののち首都防衛のために要塞の建設が必要とされて、7月王政期においても長期にわたって議論されてきた。それがようやく1841年になって、1億4000万フランを投じて要塞が本格的に建設されることになったのである。パリ郊外28~69キロの円周上にある軍事拠点(シャラントン、ノジャン、イヴリーなど)に、16の分離要塞がつくられた。

 これらの要塞の建設目的は、帝政末期の1814年に、イギリス、ロシア、オーストリアなどの連合軍によるパリ占領を簡単に許してしまった苦い経験をもとに、首都を外敵から防衛することにあった。しかし、また一方では、1832年、1834年にパリで起きた大規模な反乱を念頭において、首都での蜂起にたいする抑止効果を狙ったとも言われる。分離要塞の大砲はパリの外にではなく、内側に向けられていると共和主義者たちが批判したのはこの点だ。1841年の議会で、発案者のティエールはこうした共和派などから出された懸念を打ち消そうと「城塞の堡塁が自由や秩序を損なうと考えるのはまったくもって現実離れというものだ」と答弁している。版画に描かれた曲尺と設計図は、反体制派を弾圧しようとするルイ=フィリップの企みを暴いているのである。

 「謎々」についての分析は次回も続くが、最後に『カリカチュール』に掲載された分離要塞を扱った諷刺画を紹介しておこう。

1)パリの地図を見ながら分離要塞の建設を計画する国王ルイ=フィリップ。
『カリカチュール』(デスペレ作、1833年8月29日号)
『カリカチュール』1833年8月29日号

2)分離要塞に陣取る政府系の新聞と、それを攻撃する反政府側の新聞の闘い。
『カリカチュール』(デスペレ作、1833年6月27日号)

『カリカチュール』1833年6月27日号

3)分離要塞をパリ近郊に配置して、民衆の反乱を抑える準備は怠りない。
 『カリカチュール』(フィリポン&ヴァティエ作、1831年12月15日号)
『カリカチュール』1831年12月15日号






(この項、続く)

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