2014年6月21日土曜日

III-1 グランヴィル補遺

 J.J グランヴィルはナンシーに育ったが、あるとき父の友人のマンシオンに勧められてパリにいくことになった。グランヴィルを新たな世界に導いたこのマンシオンという人物について興味深いことがわかったので、ここではそれについて書いてみたい。

 グランヴィルは中学のころ学校に通うのがいやで、細密画家をやっていた父に願い出て、その工房の見習いとなった。1825年、グランヴィル22歳のころ、たまたまナンシーにやってきた父の友人マンシオンが彼の才能に驚いて、パリにある自分のアトリエで働いてみないかと誘う。こうしてグランヴィルはパリにやってくる。

 このマンシオンという人も細密画家だった。細密画というのは肖像や風景などを、水彩、グアッシュ、油彩などで細部まで緻密に描いた小型の絵で、18世紀から19世紀前半にかけて大いにもてはさやれた。しかしグランヴィルはマンシオンのアトリエでの仕事にたいして情熱を持てなかったようだ。ミニアチュールに関していえば「彼は何枚かの肖像画を描いただけだった。それらの肖像画は実物によく似ていたものの、腕の立つ点描画家ならば絵に与えることができる色調のみずみずしさを欠いていた」と同時代のノレ=ファベールは証言している。細密画は措くとしても、この時期のグランヴィルにとって重要なことは、1827年に『サロンの女予言者』という52枚の占いカードを発表したことである。これは当時の慣例で、師であるマンシオンの名前で発表されたが、版画家グランヴィルの事実上のデビュー作になった。

 このマンシオン、本名アンドレ=レオン・ラリュAndré-Léon Larue はいったいどんな人だろうか。彼は1785年にナンシーに生まれているが、没年はわかっていない。少なくとも1834年までは生きていた形跡があるが、1870年まで生きたという説もある。彼は細密画家であった父やジャン=バティスト・イザベイ(1767−1855)の弟子だった。ふつうは象牙に大型の細密画を描いていたが、ときには犢皮紙、磁器、琺瑯などにも描いた。彼はナポレオンの皇妃マリ=ルイーズの肖像細密画(1812年)のほか、帝政期の俳優、芸術家、貴族などの細密画も数多くつくっている。なかには1830年ころに国王ルイ=フィリップの肖像画も残っている。


マンシオン「マリ=ルイーズの肖像細密画」1812年

 このように活躍したマンシオンだったが、彼のその後の活動を見ると、肖像細密画というジャンルの栄光と悲惨を象徴しているように思われる。人気を得ていた肖像細密画は19世紀中頃になると、1839年にダゲールが発表した銀版写真から始まる写真の発展によって大きな打撃を被る。

 エアロン・シャーフの『芸術と写真』によれば、1830年、イギリスのロイヤル・アカデミーの展覧会では、1278点の展示作品のうちミニアチュールは300点にものぼったという。それが1866年には64点、70年には33点に激減する。その理由は、肖像細密画がより安価で簡単にできるダゲレオタイプ(銀版写真)の肖像写真にとって代わられたことによる。

 仕事が減少した細密画家のなかには写真家に転向する者も多くいた。たとえばベルリンやハンブルクには1850年以前、59人の銀版写真家がいたが、そのうち29人が過去に画家であったり現在画家である者で、そのほかに石版画家だった者と版画家だった者が一人ずついたという。この事情はロンドンでも変わりはない。さらに大きな視点でいうならば、写真は肖像細密画だけにとどまらず、絵画一般にも深刻な影響を及ぼしていた。ポール・ドラロッシュのアトリエで学んでいたギュスターヴ・ル=グレー、アンリ・ル・セック、シャルル・ネーグル、ロジャー・フェントンなどが1850年前後になって写真家に転向したように、画家志望の若者たちが写真家になった例は少なくない。

 また一方、写真家に転向せず、肖像細密画の修正や色付けをする者たちもいた。当時、写真の大きな欠点のひとつは、色彩がないことだった。それを補うために写真の彩色に細密画家が求められた。また銀版写真を補正する技術もなかったことから、筆で修正を加えるためにも画家の手が必要だったのだろう。先に掲げたルイ・フィリップ国王の肖像細密画を見ると、高さ10cm弱という小ささにもよるのだろうが、大きな肖像画とはちがって、写真に近いリアリティが感じられる。細密肖像画と写真が競合するわけである。

マンシオン「ルイ・フィリップの細密肖像画」1830年ころ

アントワーヌ・クローデ「ルイ・フィリップの肖像写真」1842年

 マンシオンはこちらの生き方を選んだ。時期は特定できないのだが、彼はロンドンに渡り、細密画家の仕事を続けながら、アントワーヌ・クローデなどの銀版写真家の下で写真を色付けをしていたという。アントワーヌ・クローデ (Antoine Claudet, 1797-1867) はもともと銀版写真を発明したルイ・ジャック・マンデ・ダゲールの弟子で、1841年以降ロンドンに渡り、ロンドンで最初期の銀版肖像写真家として活躍した人である。マンシオンがロンドンに渡った経緯はわかっていない。ロンドンでの細密画の需要を見込んでイギリスに旅だったのかもしれないし、あるいは細密画に未来がないことを予感して、アントワーヌ・クローデの誘いに乗ったか、彼に色付け師の仕事を頼み込んだのかもしれない。

 もしグランヴィルが、父の仕事を素直に継いだり、パリに出てマンシオンのアトリエでそのまま働いていたりしたら、彼もマンシオン同様、仕事が激減して、写真の色付け師に転向したことも考えられる。幻灯、シルエット、写真など同時代に発展する光学装置に強く惹かれていたグランヴィルである、ひょっとしたらル・グレーやネーグルのように、写真家になっていた可能性もなくはない。ただ初期の写真家たちの多くが1820年前後に生まれていることを考えると、1803年生まれで1840年代には40歳になろうとするグランヴィルが写真家に転向するはもう遅すぎたとも言える。
 
 

2014年6月15日日曜日

I-6 「壁の塗り替え」(2)


 「自由は世界を駆けめぐる」
 ルイ=フィリップの左肘の後ろ辺りに書かれている落書きには「自由は世界を駆けめぐる、7月29日」la liberté fera le tour du monde, 29 juillet とある。これは読んだとおり、7月革命が大革命と同じく、フランス国内のみならず他国の国民に大きな力を与え、自由を求める運動として世界に広がっていったことを意味している。それが消されようとしているということは、I-3 「ワルシャワの秩序は保たれている」で見たとおり、ルイ=フィリップの政府がヨーロッパの保守的な列強に配慮して対外的な事なかれ主義をとり、ポーランド、イタリアなどで起きた自由主義運動を見殺しにしたことを示している。いわば革命的伝統をフランスは捨てたということである。

 ところで、この「自由は世界を駆けめぐる」la liberté fera le tour du monde という表現は当時よく使われていたようで、大革命期に愛唱されたと思われる「赤いフリギア帽の旅」Les Voyages du bonnet rouge というシャンソンにも「ついに、パリから日本まで、アフリカからラップランドまで平等は根づいていく。暴君たちよ、運命の賽は投げられた。自由のフリギア帽は世界を駆けめぐるだろう」Le bonnet de la liberté fera le tour du monde という歌詞が入っていた。歌詞のなかで、辺境にまで平等が広まったことを示すのに、「日本」Japon と「ラップランド」 Lapon で韻を踏ませている。日本人としては苦笑せざるを得ないが、それはともあれ、自由と平等を掲げたフランスが先頭に立って世界中にそれを広めていく、というところに国の矜持があった。いわば「世界の中心で自由を叫ぶ」というわけである。その詳しい分析はのちに譲るとして、こうした理想に導かれるようにして、7月革命後には『シルエット』(1830年12月6日号)にその名もまさしく「自由は世界を駆けめぐる」と題された版画が、そして1848年2月革命のときには、ソリユーの「社会民主的な世界共和国」が描かれる。


「自由は世界を駆けめぐる」『シルエット』1830年12月6日号

ソリユー「社会民主的な世界共和国」(1848年)


「クレドヴィルは泥棒だ」
 またルイ=フィリップの腰のあたりの落書きには、「クレドヴィルは泥棒だ」Crédeville est un voleur と書かれている。これはルイ=フィリップと関係のない落書きである。「クレドヴィル」という落書きは1820年代末になって、「ブージニエの鼻」le nez de Bougnier と同じように、パリの壁という壁によく書かれたという。ついで1830年になるとルイ=フィリップの諷刺である「洋梨」の絵が現れ、クレドヴィル、ブージニエの鼻、洋梨は、落書きの3大トリオとなって、パリの街に氾濫した。さらに、シャルル・モンスレによれば、これらの落書きはパリばかりでなく、なんとエジプトのピラミッドにも3つ揃って描かれたという。

 クレドヴィルにはいくつかの説がある。ひとつは、画家の卵たちの悪ふざけである。生真面目な画家クレドヴィルをからかってやろうと、画家仲間たちがいたるところに赤い石墨で「泥棒クレドヴィル」と書いて、当局の注意を惹こうと考えたらしい。また別の説では、最初にクレドヴィルの名前をパリの壁に落書きしたのは、少し頭のおかしいプラム売りの女だった。彼女は帝政期にクレドヴィルと婚約していたのだが、ナポレオンの没落後、男と生き別れになって精神に変調をきたしたらしい。彼女は婚約者と再会したい一心でパリの壁という壁にクレドヴィルという名前を書いたという。さらに、クレドヴィルは犯罪者で、逮捕後にジャン・ヴァルジャンのように強制労働をしていたという説もある。徒刑場をまんまと脱獄した彼は、その威信にかけて捜索する警察を尻目に、フランス各地で「泥棒クレドヴィル」と落書きして当局をからかったのだという。日本の盗賊や暴走族に倣っていえば「クレドヴィル参上」というところではないだろうか。

「ブージニエの鼻」 
 ことのついでに「ブージニエの鼻」についても書いておこう。こちらはもっとよく事情がわかっている。ブージニエ Bouginier は本名アンリ・ブージュニエ Henri Bougenier (1799−1866)といい、19世紀の初頭、新古典主義のグロのアトリエで学んだ画家で、サロンにも何度か出品したあと、写真家に転向したらしい。彼が友だちの画家たちにからかわれたのは、その大きな鼻のせいだった。当時のことを回想するかたちのエッセイ『パリのイギリス人』という本によれば、ブージニエは、同時代の文学者のシャルル・ラッサイ、国立自然史博物館の館長を務めたアントワーヌ=ロラン・ジュシユー、俳優のイアサント、そして、7月王政の政治家で『カリカチュール』の標的にもされていたダルグーと並んで、大きな鼻で有名だったという。

シャルル・ラッサイ

アントワーヌ=ロラン・ジュシユー(ダヴィッド・ダンジェ作)

イアサント



 なぜだがわからないが、パッサージュ・デュ・ケールの入り口にはかつてブージニエの諷刺肖像が掲げられていた。図を見るとなるほどからかわれるのも無理はない。そこには落書きの流行に欠かせない「華」があるではないか。
パッサージュ・デュ・ケールのブージニエ


 それにしても、「クレドヴィル」「ブージニエ」のどちらも画家たちの悪ふざけという点が目を惹く。なるほど当時「画学生の悪ふざけ」farce de rapin ということばがあるくらい、美術学校の学生たちは冗談やら洒落やらいたずらが好きだったようだ。バルザックの『ゴリオ爺さん』にも次のような一節がある。「最近発明されたディオラマは、(…)ほうぼうの画家のアトリエで、語尾にラマをつけて話をする冗談を生み出した。」そして小説の舞台となる下宿屋ヴォケール館では、常連の若い画家を中心に、「健康」のことを「サンテラマ」、「すごい寒さ」のことを「フロワトラマ」などという言い回しが流行ったりするほどになった。
 もっとも画家となれば、「ブージニエの鼻」だとか「洋梨」などのカリカチュアはお手のものだ。若い画家たちが人の特徴を捉える諷刺画に手を染めるのも不思議はない。後年パリ・オペラ座を設計することになるシャルル・ガルニエも、17歳で美術学校に入学してから諷刺画に手を染めていた。最後にそのいくつかの例を掲げて、今回の終わりとする。
「ポール・ボードリ」(シャルル・ガルニエ)

「諷刺自画像」(シャルル・ガルニエ)1850年


(この項続く)

I-6 「壁の塗り替え」(1)

「壁の塗り替え」『カリカチュール』1831年6月30日号

   I-4「なぞなぞ」(1)で簡単に触れた「壁の塗り替え」le Replâtrage (『カリカチュール』1831年6月30日)を詳しく見てみたい。この版画では左官屋の姿をしたルイ・フィリップが「7月29日通り」の汚れた壁を塗りなおしている。「7月29日」とは7月革命が起こった日であり、落書きの「自由のために死す」「自由は世界を駆け巡るであろう」「市庁舎での将来構想」などは、革命の精神や、ルイ・フィリップが国王になったときに示した政治姿勢を表している。それが今やすっかり消されつつあるというのだ。面白いのはルイ・フィリップの姿である。彼は労働者風のスモックを着て左官に化けているが、胸元から軍服が覗き、また庶民にふさわしくない華奢な靴を履いている。庶民の代弁者の触れ込みだった国王の正体見たり、というわけだ。

「自由のために死す」
 では細部を見て行きたい。ルイ=フィリップが漆喰で消そうとしている落書きにはなにが書かれているのか。一番上には「自由のために死す」la mort pour la libérté とある。これに説明の必要はないだろう。7月革命の際に多くの市民が、シャルル10世政府を打倒し、自由を回復させるために死を賭して戦ったことを指している。

「市庁舎での将来構想」
 その下に書かれているのは、「ラファイエット」Lafayette、「市庁舎での将来構想」Programme de l’Hôtel de Ville(その大部分は消えている)である。「市庁舎での将来構想」とは、国王になる直前のオルレアン公が大革命の象徴的人物ラファイエットと会談をして取り決めたといわれるもので、立憲君主制のもとで共和主義的な政策を実現していくという構想であったようだ。「であったようだ」と書いたのは、この構想が現実にあったのかなかったのか、7月王政発足当時から大きな議論になっていたからである。

 革命を賭けた「栄光の3日間」の翌日1830年7月30日に、銀行家であり政治家でもあるラフィットと連携したジャーナリストのティエールとミニェが、革命の混乱を早期に収拾すべくオルレアン公を国王にしようと考え、いち早く次のような文書をパリ中に貼りだす。

 「シャルル10世はもはやパリに入ることはできない。彼は民衆の血を流したからである。しかしフランスが共和国となれば、我々は恐ろしい内紛に直面することになるであろうし、ヨーロッパの諸外国との不和を招くであろう。オルレアン公は革命の大義に身を捧げた王族である。オルレアン公はこれまで一度として我々に刃を向けて戦ったことはない。オルレアン公はジェマップにいた。オルレアン公は市民王である。オルレアン公は戦場で三色旗を掲げていた。そして今もなお三色旗を掲げることのできるのはオルレアン公だけである。我々が彼以外の者を望むことは絶対にない。オルレアン公は、我々がこれまでに願い、考えていたかたちの憲章を受け入れている。彼が王冠を受け継いだのは民衆からである」

 これと連動するように30日午後になると、共和派の動きを恐れる議員たちが議会に集まり、オルレアン公に国王代理を受け入れを要請する決議を行なう。こうしてお膳立ての整った30日深夜、革命派と反革命派の争いに巻き込まれることを嫌って郊外に身を潜めていたオルレアン公は、ヌイイからパリの住居であるパレ・ロワイヤルに帰ってきた。そして翌日、彼はパリ市庁舎でラファイエットと会談を行なうことにする。自分が国王になるためには市民の前に姿を現すことがぜひとも必要だったからである。

 一方、パリ市庁舎に陣取った革命派たちは、ラファイエット将軍を担いで共和制を実現しようとしていた。しかし当のラファイエットはシャルル10世に引導を渡したものの(「いかなる和解も不可能であり、王家の支配は終わった」という7月29日の発言)、彼は必ずしも共和国の成立を無条件に支持していたわけではない。国民の意志を尊重してアメリカ式の共和主義体制を実現したいと考えていたが、その一方で、平和が必要な今このときに共和制を無理強いして、国内が混乱に陥り、諸外国が介入してくることを恐れていた。ラファイエットは決断力の乏しい人だったようだが、このときも、彼は大いに迷っていた。自分の友人でもあり、オルレアン公に近いジェラール将軍や議員のバロー、モーギャンたちから王制の採用を働きかけられていたし、さらに7月31日の朝、アメリカ公使ライヴスの訪問を受け、共和制になればフランスのこれまでの40年の努力が無駄になると忠告されたのだった。

 そして31日の午後に、オルレアン公がパリ市庁舎に赴いてラファイエットとの会談が実現する。その場では、同日の早い午後に議員90人が署名した声明(混乱から脱するための法整備を早急に行なうこと、オルレアン公を国王代理とすること、憲章を順守することなど)が読み上げられた。その会談後、ふたりはバルコニーに出て、市庁舎広場に集まる人々の前に姿を現した。市民の歓呼のなか、ふたりは抱き合い、抱擁を交わす。これがシャトーブリアンのいう「共和派のキス」baiser républicain である。この抱擁によって、オルレアン公は、ラファイエットの、つまり共和派のお墨付きをもらい、国王への道筋をつけることができたのである。

市庁舎バルコニーでの抱擁
ところが、会談後、共和派の人たちは、オルレアン公から進歩的な政策の明確な言質をとっていないことを不満にとして、ラファイエットを責めた。そこで翌日ラファイエットはパレ・ロワイヤルに赴き、再度話し合いをする。そのなかで、本来なら採用すべきはアメリカの憲法だが、現状においては、国民に支持された国王のもとで共和主義的な制度を整備していくのがふさわしい、と いうラファイエットのことばに、オルレアン公が「わたしもそのように理解している」と答えたという。少なくともラファイエットはそのような言葉のやりとり があったとしている。文書のかたちでは残っていないが、これが「パリ市庁舎での将来構想」である。ルイ=フィリップを始めとして政府系の人たちによれば、そのような「将来構想」は存在しないという。「共和派のキス」に表される市庁舎バルコニーでの儀式がその「構想」そのものであると主張する者もいれば、「憲章」こそがそれだと解釈する者もいた。

 国王自身、のちの1832年6月6日に、ラフィット、オディロン・バロ、共和派のアラゴーとの会談のなかで次のように明言している。「市庁舎での将来構想のことがよく話題に上るが、それは卑劣なでたらめである」。32年6月1日に死んだラマルク将軍の葬儀において「約束が公式に受け入れられたのに、卑劣にもそのあと忘れられた」などという者がいたのには憤りを覚える。国民が求めたのは憲章であった。そもそも「わたしはなにも約束する権利は持っていなかったし、事実なにも約束はしていない」。

 しかし、ラファイエットや共和派の人々は、「市庁舎での将来構想」という約束は、「公式に受け入れられたのに、卑劣にもそのあと忘れられた」と考え、しだいに保守化していく国王ルイ=フィリップの姿勢を革命にたいする裏切りとして非難し続けたのである。

(この項続く)

2014年5月28日水曜日

II-1 「出産=ひと安心」


[IIは、1870年以降の諷刺を扱う]
アンドレ・ジル「出産=ひと安心」
アシル・ドヴェリア『アンリ4世の誕生』

「中道派の誕生」(I-2) は、アシル・ドヴェリアの「アンリ4世の誕生」を下敷きにしていたが、アンドレ・ジルも1872年8月にこの有名な絵画を使って諷刺画を描いている。今回はそれを見てみたい。

 この諷刺画が暗示しているのは、普仏戦争後に成立した国防政府時代のできごとである。横たわる女性はフランスの女神であり、いま「410億フラン」という数字のある丸々とした子どもを産み落としたばかりである。その子をアドルフ・ティエールが居並ぶ人たちに見せようとして高々と差し上げている。ドヴェリアの絵画の「アンリ4世」が410億フランの子どもに、アンリ4世の祖父アンリ・アルブレがティエールに代えられているのである。

 諷刺画の背景を説明しよう。アドルフ・ティエールは7月王政の成立に努力し、国王ルイ=フィリップの下で2度首相を務めている。第二帝政の間、しばらく政界から離れていたが、1863年に議員に返り咲く。そして普仏戦争後、1870年1月28日に戦勝国ドイツと暫定的な休戦協定が結ばれ、2月17日、ボルドーに国民議会が置かれると、ティエールはフランス共和国行政長官に任命される。彼はドイツとの講和と賠償金の支払いなどの戦後処理に奔走する。ドイツとは2月26日に仮条約が結ばれ(50億フランの賠償金とアルザス・ロレーヌの割譲)、5月10日にフランクフルト条約が正式に締結される。そして賠償金の支払いとドイツ軍の撤退を同時並行で進めていき、早くも1873年9月に両方を実現する。

 しかしこの間、話はそう簡単に進まなかった。まず2月28日に、正式な講和条約を結ぶための国民議会選挙が開かれたが、王党派が2/3の議席を占めてしまう。パリでは共和派が優勢だったものの、大革命、2月革命期の共和国の記憶から、共和派にたいしては醒めた見方が広がっていたために、地方では保守的な傾向が強かった。

 だが王党派が多数を占めているからといって、直ちに王政復古が実現するわけではなかった。まずシャルル10世の孫のシャンボール伯(ボルドー公)を王位につけようとする正統王朝派とパリ伯(ルイ=フィリップの孫)を担ぐオルレアン派に分かれていた。また、外国の占領軍がいるなかで王が帰ってくれば、1814年の王政復古の二の舞いとなって国民の反発を招きかねないので、王党派はとりあえずティエールを支持して、王政復古の準備をすることにした。また一方の共和派も、少数派ながら、共和国の実現をめざしていた。この状況でティエールは、議会における王党派と共和派の衝突を避けるために、新政権がどのような政治体制をとるかを棚上げにする「ボルドー協定」(3月10日)を国民議会と結んで、現状維持を計った。

 こうしたなか、講和条約にたいする不満、さらに国防政府の失策(国民軍の俸給廃止、家賃の支払猶予の撤廃)などから、抗戦意識の衰えていない首都では共和派を核としたパリ・コミューンが成立する。これに対して、ティエールは徹底した実力行使で臨み、「血の一週間」が終わる5月28日までに、コミューンを完膚なきまでに壊滅させる。この鎮圧は国民の多くに支持され、共和制の支配に安心感を与えたのである。

 パリ・コミューンを片付けたティエールは次に賠償金問題の解決に力を注ぐ。賠償金50億フラン(当時のフランスの国家予算の2~3倍)を支払うために、彼は応募者にきわめて有利な国債を利用する。とくに一回目の71年6月の国債募集には約40億フランが集まった。最終的にフランスは予定より一年半早く賠償金を払い終え、先に述べたように1873年9月18日に念願のドイツ軍撤退を実現する。

 ティエールは1871年8月に共和国大統領に就任し、しだいに保守的な共和主義のほうに舵を切っていった。そして1873年5月には「君主制は不可能」だから共和制のほうが好ましいと述べるまでにいたる。この発言は「ボルドー協定」違反であるとされたことから、1873年5月24日に不信任案が可決され、ティエールは大統領職を去っている。

 1872年8月に制作された諷刺画「出産=ひと安心」は以上のような歴史を背景としてしている。懸案であった賠償金の一部が支払われたことを、女性の出産にかけて描いているのである。タイトルの délivrance は「出産」のほかに「苦痛などからの解放」の意味がある。フランスが国債によって金の袋に包まれた子どもを「出産」し、賠償金問題解決に向けて努力するティエールがほっとしているのを暗示している。ただ絵では金の袋に「410億」41milliards と書かれている。小数点の打ち損じだろうか、それとも誇張してわざと賠償金の額を大きく書いているのだろうか、それはわからない。

 また前景、ティエールの足元に集まっているのは、左からパリ伯(正統王朝派)、ナポレオン3世(ボナパルト派)、ドーマル公(オルレアン派。彼はルイ16世の五男で、 I-5 「コンデ公、謎の自殺」(2)に登場 )である。これら諸勢力は、ティエールの失政を期待していたものの、彼が賠償金をうまく返還し、信任を集めたことに失望の色を隠せないでいる。とくに真ん中のナポレオン三世はその象徴である「鷲」と一緒にしょげかえっている。諷刺画を描いたアンドレ・ジルは共和派に属していた。彼は王政や帝政の復活をうかがう勢力の落胆ぶりを揶揄しているのである。

 ところが「出産=ひと安心」はそのままのかたちでは発表されなかった。検閲に引っかかってしまったのである。ジルが修正を施して『エクリプス』1872年8月4日号に掲載されたのは以下のようなものだった。

アンドレ・ジル「出産=ひと安心」検閲版

 検閲された諷刺画によくあるタイプの修正である(「ぼかし」「モザイク」の手法は日本の映画でもおなじみだ)。しかし、雲に隠れ、上半身を隠した3人についていえば、まず下半身を見ただけで真ん中の猛禽を連れた人物がだれかは一目瞭然だ。そこからの類推で当時の読者なら左右の人物が誰か簡単に特定できたと思われる。

 ついでにもう一つ、「出産=ひと安心」の一週間前に発表されたジルの諷刺画を挙げておこう。1872年7月28日号の『エクリプス』に掲載された「けっこうな状況ですな、万事順調です。出産は間近ですよ」だ。ここでは出産の近いフランス女神をティエールが診察している。「けっこうな状況」situation intéressante とは賠償金返還のための国債募集がうまく進んでいることを示しているが、この表現には「妊娠している」という意味もあり、掛詞になっているのである。


2014年5月25日日曜日

I-5「コンデ公、謎の自殺」(2)

 タレーランにはフーシェール男爵夫人に近づきたい理由があった。復古王政になって、彼のナポレオン時代の行動、特にアンギャン公の処刑が問題となったからである。すでに述べたようにアンギャン公はコンデ公の一人息子である。1804年、バーデン=バーデンに亡命していた彼は、統領政府の第一執政ナポレオン・ボナパルトの暗殺計画に加わった嫌疑で、越境したフランス軍に捕らえられ、3月にヴァンセンヌで銃殺された。

 アンギャン公殺害の指示を出したのが誰なのか正確にはわからないのだが、首謀者のひとりがタレーランだという説が有力だ。ナポレオンも1809年に「アンギャン公逮捕の決断をさせたのはタレーランである。わたしはそんなことは考えてもいなかったのだ。彼がライン川沿い[バーデン=バーデン]に滞在していることなどまったく大したことでないと思っていたし、彼をどうしようという計画も持っていなかった」と述べている。
アンギャン公の肖像

逮捕されるアンギャン公

ジョブ『銃殺班を前にしたアンギャン公』

 タレーランは、コンデ家の最後の末裔であるアンギャン公を亡き者にして、ナポレオンに敵対する王党派の士気を挫こうとしたらしい。ところが復古王政になると、王家に連なるアンギャン公の処刑に関わったことが彼の政治的立場を危うくしかねなかった。そこで、タレーランは第一復古王政が始まる1814年に、関係書類をすべて破棄している。さらに彼は事件との関わりをこう説明し始めた。1804年にアンギャン公逮捕の計画を知るとすぐ、彼の元に危険が迫っていることを知らせる手紙を送ったのだが、残念ながら間に合わなかった、と。彼はことの真相をアンギャン公の父コンデ公に伝え、理解を求める必要があった。こうしてタレーランは、フーシェール夫人を成り上がり女と内心馬鹿にしながらも、彼女を厚くもてなして喜ばせ、コンデ公との面会をうまく取りつけた。そしてコンデ公に、自分は処刑事件に関わっていないばかりか、なんとかしてアンギャン公を救おうとした、と力説したという。

 一方、フーシェール夫人にとっても、タレーランと親しくなることにメリットがあった。彼をとおして夫人はオルレアン公(後の国王ルイ=フィリップ)夫妻と親しくなって、ルイ18世の宮廷に上がることを望んでいたからだ。はたして彼女はうまく宮中に出入りすることができるようになった。しかし気性の激しい夫人はある日、夫婦喧嘩をしたとき腹立ちまぎれに、実は自分がコンデ公の愛人であるという事実を夫にぶちまけてしまった。6年間のあいだ騙されていたフーシェール男爵が怒って真実をあちこちで言いふらしたため、ルイ18世はソフィーを宮廷から閉めだしてしまった。

 その後、一時期ソフィーはイタリアへ別の男に逃避行をする。この幕間劇ののち、再びタレーランとの関係が生まれるのは、1827年になってからのことだ。コンデ公は70歳を超えているのに、嗣子がいないばかりか、まだ遺言書もつくっていない。ソフィーはこのことに焦りを感じ、タレーランと組んでこの問題を解決しようとする。二人の利害は一致しているのである。ソフィーは、彼とオルレアン家の強力な後ろ盾によって自分の財産分与を確実なものとし、さらにふたたび宮廷に出入りすることを夢見ていた。またタレーランとしては、コンデ公の莫大な財産をオルレアン家に持っていきたいと考えて、ソフィーの影響力を利用したかった。

 では誰を相続人とするのか。血縁関係から言って、国王シャルル10世の孫で王位継承権を持つボルドー公アンリ・ダルトワ(1820年生まれ)がまず挙げられる。シャルル10世の子で王太子となるはずだったベリー公は同じ1820年に暗殺されていた。しかし当時、王位継承権を持つ者は私的財産を相続することができないという規則があり、ボルドー公は除外されてしまう。とすれば、オルレアン公ルイ=フィリップの五男ドーマル公(1822年生まれ)が考えられる。コンデ公はドーマル公の大叔父(コンデ公の妻がオルレアン公の叔母にあたる)であるし、彼は幼少時のドーマル公の代父を勤めているのである。

 コンデ公の財産のほとんどをドーマル公に相続させる代わりに、一部をフーシェール夫人に与えるという遺言書が、本人の知らぬ間に、タレーランとソフィーを中心にしてつくられていった。次にこの二人とオルレアン公夫妻が協力して、コンデ公を説得にかかる。自らの死を前提にした話が自分抜きで進められていたことにコンデ公は腹をたてたというが、それにしてもフーシェール夫人のなりふり構わぬ働きかけは凄まじかったようだ。愛情をかたにとった甘い懇願と脅迫めいた言葉、そしてたびたびの口論。親しい友人への告白によれば、コンデ公はこの愛人の執拗さにはほとほと閉口したようだが、70歳の彼には、もはやソフィーとの生活を精算する気力は残っていなかった。

 こうして根負けしたコンデ公は、1829年ソフィーに与えるサン・ルー、ボワシー、モンモランシーの城と領地などの不動産と現金200万フラン(現在の貨幣価値で20億円)のほかは、すべてをドーマル公に譲る遺言書にサインをしたのだった。またソフィーの宮中伺候についていえば、オルレアン公の強力な働きかけによって、シャルル10世は1830年1月に、ソフィーの参内を禁止した前王ルイ18世の決定を撤回した。ソフィーの夢はかなったのである。

 ところがこれで終わりではなかった。30年7月に革命が起きて、民衆の暴動や恐怖政治の再来を恐れるコンデ公の心は激しく揺れ始める。彼はイギリスへの亡命を本気で考え始めたのだった。しかも、王家の傍系であるオルレアン公が、ブルボン本家のシャルル10世をイギリスに追い払うかたちで国王の座についたことを、同じ一族であり、王位の正統性を重視するコンデ公がどう思っただろうか。ソフィーとルイ=フィリップの心配はそれだけではなかった。シャルル10世が玉座から追われるということは、孫のボルドー公が王位継承権を失ったということであり、ボルドー公がコンデ公の相続人となる可能性が浮上してきたことを意味する。ソフィーと国王ルイ=フィリップはコンデ公が遺言書を書き換えることを恐れていたのだった。事実、国王はコンデ公の亡命を「どんな対価を払っても」(à tout prix) 思いとどまらせなくてはならない、とソフィーに書き送っている。そして8月27日のコンデ公の「自殺」が起きる。

 その後の事件捜査では、フーシェール夫人に嫌疑がかけられたものの、結局コンデ公の死が犯罪性を帯びていることは証明できず、彼は自殺したと断定された。当時の警察は聞き取り調査が中心で、現在のように客観的な科学捜査ができたわけでもなかったし、また捜査が長引けば7月王政政府にも累が及びかねないので、嫌疑不十分で事件は幕引きとなったと思われる。このように書くといかにも故殺が隠蔽されたかのように思える。しかしルイ=フィリップの手紙のことば à tout prix にしても、取りようによっては軽くも重くも、いかようにも解釈できることばであって、結局事件は闇のなかである。

 ついでに言えば、自殺説、他殺説のほか、もうひとつ別の説もあった。それはコンデ公とフーシェール夫人が首を締めて性的快楽を得る危ないプレイをしていて事故が起きたという説である。若いときからコンデ公の退廃的な性生活は有名だったようで、毒舌で有名なボワーニュ伯爵夫人は「女性にたいする彼の強い関心は、彼がサロンでの集まりを毛嫌いしていたことと相まって、まっとうな生活というにはあまりに程遠い暮らしをすることになった」と述べている。だが当時の貴族の性的放縦はよくあることで、コンデ公が特殊な例というわけでもない。性的遊びの度が過ぎて死んだという説は面白いが、それこそ証明不可能な説だろう。

 決定的証拠がないコンデ公の「自殺」はいくらでも憶測が可能な事件であったし、時の国王が絡んでいることで、さらに人々の好奇心は刺激された。この機会に、ルイ=フィリップを王位簒奪者と考える正統王朝主義者たち、そして革命を横取りされたと感じている共和主義者たちはこぞって、「金の亡者」ルイ=フィリップが裏で糸を引いて、コンデ公を殺害させたと喧伝した。I-3 「なぞなぞ」(3)で首に紐がついているのはそういうわけなのである。

 最後にこの事件の後日譚を紹介しておこう。事件後、フーシェール男爵夫人は表舞台から身を引いた。それと同時に、自らにとって忌まわしい思い出の場であり、また詮索好きの目が集まるサン=ルーの城館を、彼女は更地にして分割売買してしまった。1837年に帰国したソフィーはロンドンで慈善事業に精力を注ぎ、1840年に亡くなっている。

 また莫大な財産を相続したドーマル公は、2月革命後、亡命中のイギリスで「歴代コンデ公の歴史」などの歴史的な著作を発表したり、第三共和政下に下院議員も務めたりした。そして有名なコレクターでもあった彼は、1884年にシャンティイと蒐集した美術コレクションをフランス学士院に寄付している。ドーマル公は1844年に両シチリア王国の王女マリ=カロリーヌ・ブルボンと結婚し、7人の子どもをもうけていたが、84年の段階で彼には財産を引き継ぐ妻も直系の子孫もいなくなってしまっていたのである。いずれにせよ、今あるシャンティイの城とあの美術館が残っているのはドーマル公のお陰ともいえるだろう。

1840年18歳のドーマル公

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この項を書くにあたっては、Dominique Paladilhe, Le prince de Condé, histoire d’un crime, Pygmalion, 2005 などを参照した。
 
(この項、終わり)

I-5 「コンデ公、謎の自殺」(1)


I-4「なぞなぞ」(2)で触れたコンデ公の死について詳しく説明しよう。1830年8月27日の朝、自室で首を吊って死んでいるコンデ公が発見された。なぜこれが大きな問題になるのか。彼は当時フランス第一の大土地所有者で、その総資産は6600万フラン(現在の貨幣価値でほぼ660億円)だった。しかし74歳のコンデ公に遺産を相続する子どもはいなかったし、長く別居していた妻はすでに1822年に死亡している。その代わり、彼には、40歳になるイギリスの庶民で元高級娼婦だったソフィー・ドーズという怪しげな愛人がいた。結局、コンデ公の死後、莫大な財産はその一部がソフィーに、そして大半がルイ=フィリップ国王の五男ドーマル公のものとなったのである。

 コンデ公の「自殺」には事件当初から多くの疑惑が投げかけられていた。はたして彼はほんとうに自殺をしたのか。財産目当てに何者かによって自殺の偽装がなされたのではないか。コンデ公の怪死にはソフィーだけでなく、国王ルイ=フィリップも加担しているのではないか。この事件にはいかにも疑惑の名ににふさわしい登場人物と道具立てが揃っている。現代でも歴史ミステリーの番組があればとりあげられるような未解決事件なのである。

 事件のあらましを述べる前にコンデ公を紹介しておこう。ルイ6世アンリ・ジョセフ・ド・ブルボン=コンデは1756年生まれ、フランスの王家に連なる名家の貴族である。彼の莫大な財産の多くは大コンデと呼ばれるルイ2世(1621−1686)の母シャルロット・ド・モンモランシーから来ている。コンデ公は、シャンティイ、モンモランシー、ボワシーにある城館と広大な領地のほか、ブルボン宮(現在、国民議会がある)なども所有していた。妻は、フィリップ平等公の妹バティルド・ドルレアン(ルイ=フィリップの叔母)だが、彼女の奔放な性格もあって、二人は早くから別居している。二人の間にできた子がのちのアンギャン公で、彼は1804年にナポレオン暗殺計画を企てたとして処刑されている。


コンデ公
サン=ルーの城館

 さてコンデ公の死である。事件が起きたのは、パリの北約20キロのモンモランシーにあるサン=ルーの城館である。城館はもともとナポレオン3世の父ルイ・ナポレオン(オランダ王)の所有だったが、それを1816年にコンデ公が購入したものである。1830年8月27日の朝、召使が主人を起こそうと寝室のドアを叩くと返事がない。不審に思った家族たちが鍵のかかった部屋に押し入ってみると、公は、ハンカチを二枚つなぎ合わせたものをロープ代わりにし、それを窓のイスパニア錠(両開き窓の締め具に用いる錠)にひっかけて首吊り「自殺」をしているのが発見された。
自殺したコンデ公

 コンデ公の自殺の大きな原因とされたのが、死の一か月前、7月27日に起きた7月革命だ。この革命によってブルボン家の復古王政は崩壊し、シャルル10世夫妻はイギリスに亡命する。コンデ公は革命の勃発によって自分の身が危うくなることを感じ、将来を悲観したのではないかというのである。事実、7月革命後に王となったルイ=フィリップは、コンデ公の元に妻のマリ=アメリーを送って、彼の身の安全を保証したり、レジオン・ドヌール勲章を授けたりして、彼をなんとかなだめようとしている。

 しかし「自殺」を疑う情況証拠を数多くあった。まず1番目に、彼は篤実なキリスト教徒で自殺を否定していたし、自殺は臆病者の行為と公言していた。2番目に、死の前日、城館に招待したコセ=ブリサック伯爵に滞在を伸ばすように勧めていた。3番目に、死の前夜コンデ公は翌朝8時に自分を起こすよう召使に指示していた。4番目に、首を吊ったコンデ公は、版画にもあるように、足が床につく状態で死んでいた。自殺者が苦し紛れに足で立とうとすることを考えれば不自然な死に方である。5番目に、もともとコンデ公は足が悪く、階段を上がり下りするとき召使の助けを必要としていたのに、窓のイスパニア錠(床から1.95Mのところにあった)にハンカチを掛けるため椅子に登ったというのも不可解である。6番目として、彼はかつて狩猟をしたとき落馬して、左腕が頭より上にあげられなかったし、右手は1793年の決闘で負傷して以来不自由だった。つまりハンカチをロープ状にして、イスパニア錠にかけることは難しかったというのだ。7番目は照明用の蠟燭である。発見されたときに蠟燭の減り具合からして、彼は部屋全体を照らす2本の蠟燭を消し、枕元の蠟燭だけを使っていたと思われるが、わざわざ枕元の蠟燭だけの薄暗いなかで、自殺の準備をするだろうか、というのだ。最後の8番目として、コンデ公は7月革命後にサン・ルーの村にも大きな暴動が起きるのではないかと心配していたが、むしろコンデ公と村の住民の関係は良好だったという。

 自殺に見せかけた謀殺であるとすれば、まず疑われるのが愛人のソフィー・ドーズである。ではソフィーとはいったいどんな女性か。彼女は1790年にイギリスのワイト島で生まれたが、父は漁師であると同時に煙草やアルコールの密売にも関係していた。彼女はその後ロンドンに上り、コヴェント・ガーデンの舞台に立ちながら高級娼婦をしていたらしい。コンデ公はフランス大革命以来イギリスに亡命し自由奔放な生活を送っていて、1810年にソフィーとロンドンで知り合う。王政復古後、彼がパリに帰ってくると、ソフィーもフランスにやってくる。イギリスの娼婦と暮らしているという風評を避けるため、そしてソフィーを宮廷にあがらせるために、コンデ公は、愛人を自分の私生児ということにして、副官のアドリアン・ヴィクトール・フーシェールと結婚させる。そして彼に男爵の爵位を手に入れさせ、 彼を部屋づきの侍従に据える。こうして男爵夫人となったソフィーは宮廷に出入りできるようになった。
ソフィ・ドーズ

 コンデ公のそばで暮らすようになったソフィーは彼にたいして絶大な影響力を振るうようになった。コンデ公に頼み事があるときは彼女をまず通さなければならなかったほどである。この時期きわめて興味深いのは、タレーランとの接触である。シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(1754−1838、彼の名前の発音は「タルラン」とすべきようだが、ここでは日本語表記の慣用に従って「タレーラン」と書くことにする)は、絶対王政、共和政、帝政、復古王政、7月王政とつぎつぎに政体の変わる半世紀をみごとに生き延び、常に国の要職についていた。彼が「風見鶏」と呼ばれる所以である。1778年にルイ16世によってオータンの司教に任じられたあと、革命期には国民議会議長、恐怖政治時代にはアメリカに亡命していたものの、総裁政府時代、統領政府時代、第1帝政期をつうじてたびたび外務大臣を務める。復古王政期になると外務大臣に返り咲き、ウィーン会議では巧みにフランスの国益を守った。過激王党派のシャルル10世が支配する時代には失脚するが、7月王政期にはロンドン大使を1834年まで務め、38年に死亡する。

 「コンデ公、謎の自殺」の後半部分は次回に続くが、最後にタレーランの諷刺画をひとつ見ておきたい。その名も「6つの頭を持つ男」(『黄色い小人』誌、1815年4月15日号)で、作者不明だが、描いたのはドラクロワ(タレーランの息子ではないかという説もある)とも言われる。

「6つの頭を持つ男」(1815)
足に障害を持ち、「びっこの悪魔」(同名のサッシャ・ギトリの映画も有名だ)と呼ばれたタレーランは、この諷刺画で、6つの頭を持った男として描かれている。時代順に、左奥の大きな司教冠をかぶった頭が「名望家万歳」(ルイ16世時代)と叫んでいるのから始まって、右回りに「自由万歳」(革命期)「第一執政万歳」(統領政府時代)「皇帝万歳」(第一帝政期)、そして「国王万歳」(第一復古王政期)と言っている。そして最後の左を向いた頭が「万歳!・・・・」とあるのは、次に誰の治世があっても万歳を叫ぶ用意があることを皮肉っている。右手に持つ笏杖は、彼がオータンの司教であることを示し、左手の風見鶏は彼が「風任せ大公」(prince de Bienauvent) と呼ばれたように、時々の政体に応じて彼の政治的態度が変わることを示しているのである。

(この項、続く)

2014年5月16日金曜日

I-4 「なぞなぞ」(3)

敷石
 尻をかたどった石の塊のようなものはパリの街路の敷石である。この点について詩句は「背骨の下、仙骨のあたりに、ルーヴルの墓所からとってきた敷石が2個見える」とある。パリの敷石は7月革命のバリケードをつくるのに使ったことから、もともと革命の象徴となっていた。では「ルーヴルの墓所からとってきた」とはどういうことか。これはおそらく革命の3日目の7月29日にパレ・ロワイヤルやルーヴルで激しい戦闘があったことと関係している。ルーヴル宮には7月革命の戦死者たちの墓が置かれ、多くの参拝客を集めていたいたという(宮殿をを守っていたスイス傭兵たちの墓もあったようだ)。記念として敷石も置かれていたのだろうか。

 そこには自由のために死んだ者たちを哀悼する墓銘碑が多く飾られていた。「英雄よ、安らかに眠れ。あなたの霊を鎮めるために、息子は復讐するだろう。あるいは、父に続いて戦いに出た息子が数で敵に押しつぶされるならば、あなたの例にならって、彼も死ぬことになるだろう」「あなたの勇敢さを誇らしく思う妻は、いまだ寡婦のまま、あなたのおそばにおります。あなたが法を強固なものにするために亡くなったことに思いを馳せながら、この厳しい試練の仕打ちを耐え忍んでおります。」などなど。

 ルイ=フィリップはその墓所から象徴となる敷石を盗み、尻に当てるという非道な振る舞いをしている。革命を軽んじ、犠牲者を馬鹿にしているというわけだ。
 
放水器
 脚は浣腸器になっている。詩句では「浣腸器を履いて、わたしは、注射針の曲がったところを踵のかわりにして、後ろ向きに動かす」と書かれている。この浣腸器は、1831年5月5日から8日にパリで大規模なデモが行われたとき、鎮圧のために初めてパリ消防隊の放水器が使われたことを指している。なぜ「浣腸器」で描かれているかといえば、放水器にスカトロジックなイメージを与えるためであるが、そもそも浣腸器はフランスの伝統的な医者喜劇で使われる必須アイテムだった。

『カリカチュール』1833年12月5日号. 右端がロボー将軍

 この鎮圧の指揮をしたのが、パリ国民軍総指令長官のロボー伯爵だ。この事件以降、諷刺画に現れる浣腸器はロボーのアトリビュートとなる(ロボーと浣腸器については、項を改めて紹介しよう)。1830年12月、共和派に寛容なラファイエット将軍に代えて、強硬派のロボー将軍をパリ国民軍総指令長官に据えたこと、そして政府が放水器でデモ隊を蹴散らすような断固とした態度をとり始めたことは、反体制派からすれば明らかに革命にたいする裏切りである。「後ろ向きに」とは革命からの後退を意味している。

風車
 画面左奥に見える風車にはどんな意味があるか。これはルイ=フィリップが大革命時代、革命軍の士官として参加したヴァルミーの戦いを表している。1791年、立憲君主制を拒否したルイ16世はフランスからの逃亡を謀り、ヴァレンヌで捕まってしまう。これを知ったオーストリアとプロシアはルイ16世の復権と革命の正統性のなさを主張するピルニッツ宣言を発するが、これによって翌92年から始まるフランスの対外戦争の口火が切られ、同年4月20日、フランスがオーストリアに宣戦布告を行なう。8月18日になるとブルンシュヴィック率いるプロシア軍がフランスに侵攻する。しかし9月20日、騎兵連隊を率いたシャルトル公(当時のルイ=フィリップ)と弟のモンパンシエ公の参加する革命軍は、フランス北東部シャンパーニュ=アルデンヌ地方にあるヴァルミーにおいてプロシア軍を撃破する。

 この戦争は、革命直後でフランス軍の準備不足と指揮官不足(多くが貴族だった)によって苦戦が予想されていたが、フランス革命後初の軍事的勝利となった。ヴァルミーの戦いは軍事的というよりも政治的・精神的な意味合いが強く、革命精神の勝利としてフランスを勢いづかせる。これに力を得た革命派は、王政の息の根を止め、第一共和政の樹立へと向かうのである。この戦いに歴史の転換点を感じたゲーテが「ここから、そしてこの日から世界の歴史の新しい時代が始まる」と述べた所以である。また11月6日にはフランス国境にほど近いベルギーのジェマップにおいてもフランス軍はオーストリア軍に勝利している。

 国王ルイ=フィリップにとってヴァルミーとジェマップの戦いが重要だったのは、この記念碑的勝利に自らが大きく貢献したことだ。それは自分が革命の子であることを示す絶好の機会だった。1826年にオラース・ヴェルネ(1826)が描く「ヴァルミーの戦い」に続いて、国王はエロワ・フィルマン・フェロンに「ヴァルミーにおけるシャルトル公」(1847)を、アンリ・シェフェールに「ジェマップの戦い」(1834)を注文している。
オラース・ヴェルネ「ヴァルミーの戦い」(1826)
エロワ・フィルマン・フェロン「ヴァルミーにおけるシャルトル公」(1836)
アンリ・シェフェール「ジェマップの戦い」(1846)

 風車は、ヴァルミーの丘にあった有名なサン=ソーヴの風車で、フランス軍の勝利を表す象徴となっていた。現在のヴァルミーには2005年に復元された風車が立てられている。

現在のヴァルミーの風車
 諷刺画では、ことあるごとにヴァルミーへの参戦を誇らしげに語るルイ=フィリップをからかって、風車を国王のアトリビュートとしている。たとえば「フェルト」の項に掲げたシャラントン病院のルイ=フィリップは服の飾りにもそれは見られる(I-4 「なぞなぞ」(2))。また、1834年2月8日号の『シャリヴァリ』では、国王を鸚鵡に見立てて、止まり木に「ヴァルミー」「ジェマップ」の文字を書き込んでいる。いうまでもなく、彼が鸚鵡のように「ヴァルミー」「ジェマップ」と繰り返してばかりいることをあてこすっているのである。
『シャリヴァリ』1834年2月8日号


(この項、終わり)