[IIは、1870年以降の諷刺を扱う]
アンドレ・ジル「出産=ひと安心」 |
「中道派の誕生」(I-2) は、アシル・ドヴェリアの「アンリ4世の誕生」を下敷きにしていたが、アンドレ・ジルも1872年8月にこの有名な絵画を使って諷刺画を描いている。今回はそれを見てみたい。
この諷刺画が暗示しているのは、普仏戦争後に成立した国防政府時代のできごとである。横たわる女性はフランスの女神であり、いま「410億フラン」という数字のある丸々とした子どもを産み落としたばかりである。その子をアドルフ・ティエールが居並ぶ人たちに見せようとして高々と差し上げている。ドヴェリアの絵画の「アンリ4世」が410億フランの子どもに、アンリ4世の祖父アンリ・アルブレがティエールに代えられているのである。
諷刺画の背景を説明しよう。アドルフ・ティエールは7月王政の成立に努力し、国王ルイ=フィリップの下で2度首相を務めている。第二帝政の間、しばらく政界から離れていたが、1863年に議員に返り咲く。そして普仏戦争後、1870年1月28日に戦勝国ドイツと暫定的な休戦協定が結ばれ、2月17日、ボルドーに国民議会が置かれると、ティエールはフランス共和国行政長官に任命される。彼はドイツとの講和と賠償金の支払いなどの戦後処理に奔走する。ドイツとは2月26日に仮条約が結ばれ(50億フランの賠償金とアルザス・ロレーヌの割譲)、5月10日にフランクフルト条約が正式に締結される。そして賠償金の支払いとドイツ軍の撤退を同時並行で進めていき、早くも1873年9月に両方を実現する。
しかしこの間、話はそう簡単に進まなかった。まず2月28日に、正式な講和条約を結ぶための国民議会選挙が開かれたが、王党派が2/3の議席を占めてしまう。パリでは共和派が優勢だったものの、大革命、2月革命期の共和国の記憶から、共和派にたいしては醒めた見方が広がっていたために、地方では保守的な傾向が強かった。
だが王党派が多数を占めているからといって、直ちに王政復古が実現するわけではなかった。まずシャルル10世の孫のシャンボール伯(ボルドー公)を王位につけようとする正統王朝派とパリ伯(ルイ=フィリップの孫)を担ぐオルレアン派に分かれていた。また、外国の占領軍がいるなかで王が帰ってくれば、1814年の王政復古の二の舞いとなって国民の反発を招きかねないので、王党派はとりあえずティエールを支持して、王政復古の準備をすることにした。また一方の共和派も、少数派ながら、共和国の実現をめざしていた。この状況でティエールは、議会における王党派と共和派の衝突を避けるために、新政権がどのような政治体制をとるかを棚上げにする「ボルドー協定」(3月10日)を国民議会と結んで、現状維持を計った。
こうしたなか、講和条約にたいする不満、さらに国防政府の失策(国民軍の俸給廃止、家賃の支払猶予の撤廃)などから、抗戦意識の衰えていない首都では共和派を核としたパリ・コミューンが成立する。これに対して、ティエールは徹底した実力行使で臨み、「血の一週間」が終わる5月28日までに、コミューンを完膚なきまでに壊滅させる。この鎮圧は国民の多くに支持され、共和制の支配に安心感を与えたのである。
パリ・コミューンを片付けたティエールは次に賠償金問題の解決に力を注ぐ。賠償金50億フラン(当時のフランスの国家予算の2~3倍)を支払うために、彼は応募者にきわめて有利な国債を利用する。とくに一回目の71年6月の国債募集には約40億フランが集まった。最終的にフランスは予定より一年半早く賠償金を払い終え、先に述べたように1873年9月18日に念願のドイツ軍撤退を実現する。
ティエールは1871年8月に共和国大統領に就任し、しだいに保守的な共和主義のほうに舵を切っていった。そして1873年5月には「君主制は不可能」だから共和制のほうが好ましいと述べるまでにいたる。この発言は「ボルドー協定」違反であるとされたことから、1873年5月24日に不信任案が可決され、ティエールは大統領職を去っている。
1872年8月に制作された諷刺画「出産=ひと安心」は以上のような歴史を背景としてしている。懸案であった賠償金の一部が支払われたことを、女性の出産にかけて描いているのである。タイトルの délivrance は「出産」のほかに「苦痛などからの解放」の意味がある。フランスが国債によって金の袋に包まれた子どもを「出産」し、賠償金問題解決に向けて努力するティエールがほっとしているのを暗示している。ただ絵では金の袋に「410億」41milliards と書かれている。小数点の打ち損じだろうか、それとも誇張してわざと賠償金の額を大きく書いているのだろうか、それはわからない。
また前景、ティエールの足元に集まっているのは、左からパリ伯(正統王朝派)、ナポレオン3世(ボナパルト派)、ドーマル公(オルレアン派。彼はルイ16世の五男で、 I-5 「コンデ公、謎の自殺」(2)に登場 )である。これら諸勢力は、ティエールの失政を期待していたものの、彼が賠償金をうまく返還し、信任を集めたことに失望の色を隠せないでいる。とくに真ん中のナポレオン三世はその象徴である「鷲」と一緒にしょげかえっている。諷刺画を描いたアンドレ・ジルは共和派に属していた。彼は王政や帝政の復活をうかがう勢力の落胆ぶりを揶揄しているのである。
ところが「出産=ひと安心」はそのままのかたちでは発表されなかった。検閲に引っかかってしまったのである。ジルが修正を施して『エクリプス』1872年8月4日号に掲載されたのは以下のようなものだった。
アンドレ・ジル「出産=ひと安心」検閲版 |
検閲された諷刺画によくあるタイプの修正である(「ぼかし」「モザイク」の手法は日本の映画でもおなじみだ)。しかし、雲に隠れ、上半身を隠した3人についていえば、まず下半身を見ただけで真ん中の猛禽を連れた人物がだれかは一目瞭然だ。そこからの類推で当時の読者なら左右の人物が誰か簡単に特定できたと思われる。
ついでにもう一つ、「出産=ひと安心」の一週間前に発表されたジルの諷刺画を挙げておこう。1872年7月28日号の『エクリプス』に掲載された「けっこうな状況ですな、万事順調です。出産は間近ですよ」だ。ここでは出産の近いフランス女神をティエールが診察している。「けっこうな状況」situation intéressante とは賠償金返還のための国債募集がうまく進んでいることを示しているが、この表現には「妊娠している」という意味もあり、掛詞になっているのである。