2014年5月28日水曜日

II-1 「出産=ひと安心」


[IIは、1870年以降の諷刺を扱う]
アンドレ・ジル「出産=ひと安心」
アシル・ドヴェリア『アンリ4世の誕生』

「中道派の誕生」(I-2) は、アシル・ドヴェリアの「アンリ4世の誕生」を下敷きにしていたが、アンドレ・ジルも1872年8月にこの有名な絵画を使って諷刺画を描いている。今回はそれを見てみたい。

 この諷刺画が暗示しているのは、普仏戦争後に成立した国防政府時代のできごとである。横たわる女性はフランスの女神であり、いま「410億フラン」という数字のある丸々とした子どもを産み落としたばかりである。その子をアドルフ・ティエールが居並ぶ人たちに見せようとして高々と差し上げている。ドヴェリアの絵画の「アンリ4世」が410億フランの子どもに、アンリ4世の祖父アンリ・アルブレがティエールに代えられているのである。

 諷刺画の背景を説明しよう。アドルフ・ティエールは7月王政の成立に努力し、国王ルイ=フィリップの下で2度首相を務めている。第二帝政の間、しばらく政界から離れていたが、1863年に議員に返り咲く。そして普仏戦争後、1870年1月28日に戦勝国ドイツと暫定的な休戦協定が結ばれ、2月17日、ボルドーに国民議会が置かれると、ティエールはフランス共和国行政長官に任命される。彼はドイツとの講和と賠償金の支払いなどの戦後処理に奔走する。ドイツとは2月26日に仮条約が結ばれ(50億フランの賠償金とアルザス・ロレーヌの割譲)、5月10日にフランクフルト条約が正式に締結される。そして賠償金の支払いとドイツ軍の撤退を同時並行で進めていき、早くも1873年9月に両方を実現する。

 しかしこの間、話はそう簡単に進まなかった。まず2月28日に、正式な講和条約を結ぶための国民議会選挙が開かれたが、王党派が2/3の議席を占めてしまう。パリでは共和派が優勢だったものの、大革命、2月革命期の共和国の記憶から、共和派にたいしては醒めた見方が広がっていたために、地方では保守的な傾向が強かった。

 だが王党派が多数を占めているからといって、直ちに王政復古が実現するわけではなかった。まずシャルル10世の孫のシャンボール伯(ボルドー公)を王位につけようとする正統王朝派とパリ伯(ルイ=フィリップの孫)を担ぐオルレアン派に分かれていた。また、外国の占領軍がいるなかで王が帰ってくれば、1814年の王政復古の二の舞いとなって国民の反発を招きかねないので、王党派はとりあえずティエールを支持して、王政復古の準備をすることにした。また一方の共和派も、少数派ながら、共和国の実現をめざしていた。この状況でティエールは、議会における王党派と共和派の衝突を避けるために、新政権がどのような政治体制をとるかを棚上げにする「ボルドー協定」(3月10日)を国民議会と結んで、現状維持を計った。

 こうしたなか、講和条約にたいする不満、さらに国防政府の失策(国民軍の俸給廃止、家賃の支払猶予の撤廃)などから、抗戦意識の衰えていない首都では共和派を核としたパリ・コミューンが成立する。これに対して、ティエールは徹底した実力行使で臨み、「血の一週間」が終わる5月28日までに、コミューンを完膚なきまでに壊滅させる。この鎮圧は国民の多くに支持され、共和制の支配に安心感を与えたのである。

 パリ・コミューンを片付けたティエールは次に賠償金問題の解決に力を注ぐ。賠償金50億フラン(当時のフランスの国家予算の2~3倍)を支払うために、彼は応募者にきわめて有利な国債を利用する。とくに一回目の71年6月の国債募集には約40億フランが集まった。最終的にフランスは予定より一年半早く賠償金を払い終え、先に述べたように1873年9月18日に念願のドイツ軍撤退を実現する。

 ティエールは1871年8月に共和国大統領に就任し、しだいに保守的な共和主義のほうに舵を切っていった。そして1873年5月には「君主制は不可能」だから共和制のほうが好ましいと述べるまでにいたる。この発言は「ボルドー協定」違反であるとされたことから、1873年5月24日に不信任案が可決され、ティエールは大統領職を去っている。

 1872年8月に制作された諷刺画「出産=ひと安心」は以上のような歴史を背景としてしている。懸案であった賠償金の一部が支払われたことを、女性の出産にかけて描いているのである。タイトルの délivrance は「出産」のほかに「苦痛などからの解放」の意味がある。フランスが国債によって金の袋に包まれた子どもを「出産」し、賠償金問題解決に向けて努力するティエールがほっとしているのを暗示している。ただ絵では金の袋に「410億」41milliards と書かれている。小数点の打ち損じだろうか、それとも誇張してわざと賠償金の額を大きく書いているのだろうか、それはわからない。

 また前景、ティエールの足元に集まっているのは、左からパリ伯(正統王朝派)、ナポレオン3世(ボナパルト派)、ドーマル公(オルレアン派。彼はルイ16世の五男で、 I-5 「コンデ公、謎の自殺」(2)に登場 )である。これら諸勢力は、ティエールの失政を期待していたものの、彼が賠償金をうまく返還し、信任を集めたことに失望の色を隠せないでいる。とくに真ん中のナポレオン三世はその象徴である「鷲」と一緒にしょげかえっている。諷刺画を描いたアンドレ・ジルは共和派に属していた。彼は王政や帝政の復活をうかがう勢力の落胆ぶりを揶揄しているのである。

 ところが「出産=ひと安心」はそのままのかたちでは発表されなかった。検閲に引っかかってしまったのである。ジルが修正を施して『エクリプス』1872年8月4日号に掲載されたのは以下のようなものだった。

アンドレ・ジル「出産=ひと安心」検閲版

 検閲された諷刺画によくあるタイプの修正である(「ぼかし」「モザイク」の手法は日本の映画でもおなじみだ)。しかし、雲に隠れ、上半身を隠した3人についていえば、まず下半身を見ただけで真ん中の猛禽を連れた人物がだれかは一目瞭然だ。そこからの類推で当時の読者なら左右の人物が誰か簡単に特定できたと思われる。

 ついでにもう一つ、「出産=ひと安心」の一週間前に発表されたジルの諷刺画を挙げておこう。1872年7月28日号の『エクリプス』に掲載された「けっこうな状況ですな、万事順調です。出産は間近ですよ」だ。ここでは出産の近いフランス女神をティエールが診察している。「けっこうな状況」situation intéressante とは賠償金返還のための国債募集がうまく進んでいることを示しているが、この表現には「妊娠している」という意味もあり、掛詞になっているのである。


2014年5月25日日曜日

I-5「コンデ公、謎の自殺」(2)

 タレーランにはフーシェール男爵夫人に近づきたい理由があった。復古王政になって、彼のナポレオン時代の行動、特にアンギャン公の処刑が問題となったからである。すでに述べたようにアンギャン公はコンデ公の一人息子である。1804年、バーデン=バーデンに亡命していた彼は、統領政府の第一執政ナポレオン・ボナパルトの暗殺計画に加わった嫌疑で、越境したフランス軍に捕らえられ、3月にヴァンセンヌで銃殺された。

 アンギャン公殺害の指示を出したのが誰なのか正確にはわからないのだが、首謀者のひとりがタレーランだという説が有力だ。ナポレオンも1809年に「アンギャン公逮捕の決断をさせたのはタレーランである。わたしはそんなことは考えてもいなかったのだ。彼がライン川沿い[バーデン=バーデン]に滞在していることなどまったく大したことでないと思っていたし、彼をどうしようという計画も持っていなかった」と述べている。
アンギャン公の肖像

逮捕されるアンギャン公

ジョブ『銃殺班を前にしたアンギャン公』

 タレーランは、コンデ家の最後の末裔であるアンギャン公を亡き者にして、ナポレオンに敵対する王党派の士気を挫こうとしたらしい。ところが復古王政になると、王家に連なるアンギャン公の処刑に関わったことが彼の政治的立場を危うくしかねなかった。そこで、タレーランは第一復古王政が始まる1814年に、関係書類をすべて破棄している。さらに彼は事件との関わりをこう説明し始めた。1804年にアンギャン公逮捕の計画を知るとすぐ、彼の元に危険が迫っていることを知らせる手紙を送ったのだが、残念ながら間に合わなかった、と。彼はことの真相をアンギャン公の父コンデ公に伝え、理解を求める必要があった。こうしてタレーランは、フーシェール夫人を成り上がり女と内心馬鹿にしながらも、彼女を厚くもてなして喜ばせ、コンデ公との面会をうまく取りつけた。そしてコンデ公に、自分は処刑事件に関わっていないばかりか、なんとかしてアンギャン公を救おうとした、と力説したという。

 一方、フーシェール夫人にとっても、タレーランと親しくなることにメリットがあった。彼をとおして夫人はオルレアン公(後の国王ルイ=フィリップ)夫妻と親しくなって、ルイ18世の宮廷に上がることを望んでいたからだ。はたして彼女はうまく宮中に出入りすることができるようになった。しかし気性の激しい夫人はある日、夫婦喧嘩をしたとき腹立ちまぎれに、実は自分がコンデ公の愛人であるという事実を夫にぶちまけてしまった。6年間のあいだ騙されていたフーシェール男爵が怒って真実をあちこちで言いふらしたため、ルイ18世はソフィーを宮廷から閉めだしてしまった。

 その後、一時期ソフィーはイタリアへ別の男に逃避行をする。この幕間劇ののち、再びタレーランとの関係が生まれるのは、1827年になってからのことだ。コンデ公は70歳を超えているのに、嗣子がいないばかりか、まだ遺言書もつくっていない。ソフィーはこのことに焦りを感じ、タレーランと組んでこの問題を解決しようとする。二人の利害は一致しているのである。ソフィーは、彼とオルレアン家の強力な後ろ盾によって自分の財産分与を確実なものとし、さらにふたたび宮廷に出入りすることを夢見ていた。またタレーランとしては、コンデ公の莫大な財産をオルレアン家に持っていきたいと考えて、ソフィーの影響力を利用したかった。

 では誰を相続人とするのか。血縁関係から言って、国王シャルル10世の孫で王位継承権を持つボルドー公アンリ・ダルトワ(1820年生まれ)がまず挙げられる。シャルル10世の子で王太子となるはずだったベリー公は同じ1820年に暗殺されていた。しかし当時、王位継承権を持つ者は私的財産を相続することができないという規則があり、ボルドー公は除外されてしまう。とすれば、オルレアン公ルイ=フィリップの五男ドーマル公(1822年生まれ)が考えられる。コンデ公はドーマル公の大叔父(コンデ公の妻がオルレアン公の叔母にあたる)であるし、彼は幼少時のドーマル公の代父を勤めているのである。

 コンデ公の財産のほとんどをドーマル公に相続させる代わりに、一部をフーシェール夫人に与えるという遺言書が、本人の知らぬ間に、タレーランとソフィーを中心にしてつくられていった。次にこの二人とオルレアン公夫妻が協力して、コンデ公を説得にかかる。自らの死を前提にした話が自分抜きで進められていたことにコンデ公は腹をたてたというが、それにしてもフーシェール夫人のなりふり構わぬ働きかけは凄まじかったようだ。愛情をかたにとった甘い懇願と脅迫めいた言葉、そしてたびたびの口論。親しい友人への告白によれば、コンデ公はこの愛人の執拗さにはほとほと閉口したようだが、70歳の彼には、もはやソフィーとの生活を精算する気力は残っていなかった。

 こうして根負けしたコンデ公は、1829年ソフィーに与えるサン・ルー、ボワシー、モンモランシーの城と領地などの不動産と現金200万フラン(現在の貨幣価値で20億円)のほかは、すべてをドーマル公に譲る遺言書にサインをしたのだった。またソフィーの宮中伺候についていえば、オルレアン公の強力な働きかけによって、シャルル10世は1830年1月に、ソフィーの参内を禁止した前王ルイ18世の決定を撤回した。ソフィーの夢はかなったのである。

 ところがこれで終わりではなかった。30年7月に革命が起きて、民衆の暴動や恐怖政治の再来を恐れるコンデ公の心は激しく揺れ始める。彼はイギリスへの亡命を本気で考え始めたのだった。しかも、王家の傍系であるオルレアン公が、ブルボン本家のシャルル10世をイギリスに追い払うかたちで国王の座についたことを、同じ一族であり、王位の正統性を重視するコンデ公がどう思っただろうか。ソフィーとルイ=フィリップの心配はそれだけではなかった。シャルル10世が玉座から追われるということは、孫のボルドー公が王位継承権を失ったということであり、ボルドー公がコンデ公の相続人となる可能性が浮上してきたことを意味する。ソフィーと国王ルイ=フィリップはコンデ公が遺言書を書き換えることを恐れていたのだった。事実、国王はコンデ公の亡命を「どんな対価を払っても」(à tout prix) 思いとどまらせなくてはならない、とソフィーに書き送っている。そして8月27日のコンデ公の「自殺」が起きる。

 その後の事件捜査では、フーシェール夫人に嫌疑がかけられたものの、結局コンデ公の死が犯罪性を帯びていることは証明できず、彼は自殺したと断定された。当時の警察は聞き取り調査が中心で、現在のように客観的な科学捜査ができたわけでもなかったし、また捜査が長引けば7月王政政府にも累が及びかねないので、嫌疑不十分で事件は幕引きとなったと思われる。このように書くといかにも故殺が隠蔽されたかのように思える。しかしルイ=フィリップの手紙のことば à tout prix にしても、取りようによっては軽くも重くも、いかようにも解釈できることばであって、結局事件は闇のなかである。

 ついでに言えば、自殺説、他殺説のほか、もうひとつ別の説もあった。それはコンデ公とフーシェール夫人が首を締めて性的快楽を得る危ないプレイをしていて事故が起きたという説である。若いときからコンデ公の退廃的な性生活は有名だったようで、毒舌で有名なボワーニュ伯爵夫人は「女性にたいする彼の強い関心は、彼がサロンでの集まりを毛嫌いしていたことと相まって、まっとうな生活というにはあまりに程遠い暮らしをすることになった」と述べている。だが当時の貴族の性的放縦はよくあることで、コンデ公が特殊な例というわけでもない。性的遊びの度が過ぎて死んだという説は面白いが、それこそ証明不可能な説だろう。

 決定的証拠がないコンデ公の「自殺」はいくらでも憶測が可能な事件であったし、時の国王が絡んでいることで、さらに人々の好奇心は刺激された。この機会に、ルイ=フィリップを王位簒奪者と考える正統王朝主義者たち、そして革命を横取りされたと感じている共和主義者たちはこぞって、「金の亡者」ルイ=フィリップが裏で糸を引いて、コンデ公を殺害させたと喧伝した。I-3 「なぞなぞ」(3)で首に紐がついているのはそういうわけなのである。

 最後にこの事件の後日譚を紹介しておこう。事件後、フーシェール男爵夫人は表舞台から身を引いた。それと同時に、自らにとって忌まわしい思い出の場であり、また詮索好きの目が集まるサン=ルーの城館を、彼女は更地にして分割売買してしまった。1837年に帰国したソフィーはロンドンで慈善事業に精力を注ぎ、1840年に亡くなっている。

 また莫大な財産を相続したドーマル公は、2月革命後、亡命中のイギリスで「歴代コンデ公の歴史」などの歴史的な著作を発表したり、第三共和政下に下院議員も務めたりした。そして有名なコレクターでもあった彼は、1884年にシャンティイと蒐集した美術コレクションをフランス学士院に寄付している。ドーマル公は1844年に両シチリア王国の王女マリ=カロリーヌ・ブルボンと結婚し、7人の子どもをもうけていたが、84年の段階で彼には財産を引き継ぐ妻も直系の子孫もいなくなってしまっていたのである。いずれにせよ、今あるシャンティイの城とあの美術館が残っているのはドーマル公のお陰ともいえるだろう。

1840年18歳のドーマル公

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この項を書くにあたっては、Dominique Paladilhe, Le prince de Condé, histoire d’un crime, Pygmalion, 2005 などを参照した。
 
(この項、終わり)

I-5 「コンデ公、謎の自殺」(1)


I-4「なぞなぞ」(2)で触れたコンデ公の死について詳しく説明しよう。1830年8月27日の朝、自室で首を吊って死んでいるコンデ公が発見された。なぜこれが大きな問題になるのか。彼は当時フランス第一の大土地所有者で、その総資産は6600万フラン(現在の貨幣価値でほぼ660億円)だった。しかし74歳のコンデ公に遺産を相続する子どもはいなかったし、長く別居していた妻はすでに1822年に死亡している。その代わり、彼には、40歳になるイギリスの庶民で元高級娼婦だったソフィー・ドーズという怪しげな愛人がいた。結局、コンデ公の死後、莫大な財産はその一部がソフィーに、そして大半がルイ=フィリップ国王の五男ドーマル公のものとなったのである。

 コンデ公の「自殺」には事件当初から多くの疑惑が投げかけられていた。はたして彼はほんとうに自殺をしたのか。財産目当てに何者かによって自殺の偽装がなされたのではないか。コンデ公の怪死にはソフィーだけでなく、国王ルイ=フィリップも加担しているのではないか。この事件にはいかにも疑惑の名ににふさわしい登場人物と道具立てが揃っている。現代でも歴史ミステリーの番組があればとりあげられるような未解決事件なのである。

 事件のあらましを述べる前にコンデ公を紹介しておこう。ルイ6世アンリ・ジョセフ・ド・ブルボン=コンデは1756年生まれ、フランスの王家に連なる名家の貴族である。彼の莫大な財産の多くは大コンデと呼ばれるルイ2世(1621−1686)の母シャルロット・ド・モンモランシーから来ている。コンデ公は、シャンティイ、モンモランシー、ボワシーにある城館と広大な領地のほか、ブルボン宮(現在、国民議会がある)なども所有していた。妻は、フィリップ平等公の妹バティルド・ドルレアン(ルイ=フィリップの叔母)だが、彼女の奔放な性格もあって、二人は早くから別居している。二人の間にできた子がのちのアンギャン公で、彼は1804年にナポレオン暗殺計画を企てたとして処刑されている。


コンデ公
サン=ルーの城館

 さてコンデ公の死である。事件が起きたのは、パリの北約20キロのモンモランシーにあるサン=ルーの城館である。城館はもともとナポレオン3世の父ルイ・ナポレオン(オランダ王)の所有だったが、それを1816年にコンデ公が購入したものである。1830年8月27日の朝、召使が主人を起こそうと寝室のドアを叩くと返事がない。不審に思った家族たちが鍵のかかった部屋に押し入ってみると、公は、ハンカチを二枚つなぎ合わせたものをロープ代わりにし、それを窓のイスパニア錠(両開き窓の締め具に用いる錠)にひっかけて首吊り「自殺」をしているのが発見された。
自殺したコンデ公

 コンデ公の自殺の大きな原因とされたのが、死の一か月前、7月27日に起きた7月革命だ。この革命によってブルボン家の復古王政は崩壊し、シャルル10世夫妻はイギリスに亡命する。コンデ公は革命の勃発によって自分の身が危うくなることを感じ、将来を悲観したのではないかというのである。事実、7月革命後に王となったルイ=フィリップは、コンデ公の元に妻のマリ=アメリーを送って、彼の身の安全を保証したり、レジオン・ドヌール勲章を授けたりして、彼をなんとかなだめようとしている。

 しかし「自殺」を疑う情況証拠を数多くあった。まず1番目に、彼は篤実なキリスト教徒で自殺を否定していたし、自殺は臆病者の行為と公言していた。2番目に、死の前日、城館に招待したコセ=ブリサック伯爵に滞在を伸ばすように勧めていた。3番目に、死の前夜コンデ公は翌朝8時に自分を起こすよう召使に指示していた。4番目に、首を吊ったコンデ公は、版画にもあるように、足が床につく状態で死んでいた。自殺者が苦し紛れに足で立とうとすることを考えれば不自然な死に方である。5番目に、もともとコンデ公は足が悪く、階段を上がり下りするとき召使の助けを必要としていたのに、窓のイスパニア錠(床から1.95Mのところにあった)にハンカチを掛けるため椅子に登ったというのも不可解である。6番目として、彼はかつて狩猟をしたとき落馬して、左腕が頭より上にあげられなかったし、右手は1793年の決闘で負傷して以来不自由だった。つまりハンカチをロープ状にして、イスパニア錠にかけることは難しかったというのだ。7番目は照明用の蠟燭である。発見されたときに蠟燭の減り具合からして、彼は部屋全体を照らす2本の蠟燭を消し、枕元の蠟燭だけを使っていたと思われるが、わざわざ枕元の蠟燭だけの薄暗いなかで、自殺の準備をするだろうか、というのだ。最後の8番目として、コンデ公は7月革命後にサン・ルーの村にも大きな暴動が起きるのではないかと心配していたが、むしろコンデ公と村の住民の関係は良好だったという。

 自殺に見せかけた謀殺であるとすれば、まず疑われるのが愛人のソフィー・ドーズである。ではソフィーとはいったいどんな女性か。彼女は1790年にイギリスのワイト島で生まれたが、父は漁師であると同時に煙草やアルコールの密売にも関係していた。彼女はその後ロンドンに上り、コヴェント・ガーデンの舞台に立ちながら高級娼婦をしていたらしい。コンデ公はフランス大革命以来イギリスに亡命し自由奔放な生活を送っていて、1810年にソフィーとロンドンで知り合う。王政復古後、彼がパリに帰ってくると、ソフィーもフランスにやってくる。イギリスの娼婦と暮らしているという風評を避けるため、そしてソフィーを宮廷にあがらせるために、コンデ公は、愛人を自分の私生児ということにして、副官のアドリアン・ヴィクトール・フーシェールと結婚させる。そして彼に男爵の爵位を手に入れさせ、 彼を部屋づきの侍従に据える。こうして男爵夫人となったソフィーは宮廷に出入りできるようになった。
ソフィ・ドーズ

 コンデ公のそばで暮らすようになったソフィーは彼にたいして絶大な影響力を振るうようになった。コンデ公に頼み事があるときは彼女をまず通さなければならなかったほどである。この時期きわめて興味深いのは、タレーランとの接触である。シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(1754−1838、彼の名前の発音は「タルラン」とすべきようだが、ここでは日本語表記の慣用に従って「タレーラン」と書くことにする)は、絶対王政、共和政、帝政、復古王政、7月王政とつぎつぎに政体の変わる半世紀をみごとに生き延び、常に国の要職についていた。彼が「風見鶏」と呼ばれる所以である。1778年にルイ16世によってオータンの司教に任じられたあと、革命期には国民議会議長、恐怖政治時代にはアメリカに亡命していたものの、総裁政府時代、統領政府時代、第1帝政期をつうじてたびたび外務大臣を務める。復古王政期になると外務大臣に返り咲き、ウィーン会議では巧みにフランスの国益を守った。過激王党派のシャルル10世が支配する時代には失脚するが、7月王政期にはロンドン大使を1834年まで務め、38年に死亡する。

 「コンデ公、謎の自殺」の後半部分は次回に続くが、最後にタレーランの諷刺画をひとつ見ておきたい。その名も「6つの頭を持つ男」(『黄色い小人』誌、1815年4月15日号)で、作者不明だが、描いたのはドラクロワ(タレーランの息子ではないかという説もある)とも言われる。

「6つの頭を持つ男」(1815)
足に障害を持ち、「びっこの悪魔」(同名のサッシャ・ギトリの映画も有名だ)と呼ばれたタレーランは、この諷刺画で、6つの頭を持った男として描かれている。時代順に、左奥の大きな司教冠をかぶった頭が「名望家万歳」(ルイ16世時代)と叫んでいるのから始まって、右回りに「自由万歳」(革命期)「第一執政万歳」(統領政府時代)「皇帝万歳」(第一帝政期)、そして「国王万歳」(第一復古王政期)と言っている。そして最後の左を向いた頭が「万歳!・・・・」とあるのは、次に誰の治世があっても万歳を叫ぶ用意があることを皮肉っている。右手に持つ笏杖は、彼がオータンの司教であることを示し、左手の風見鶏は彼が「風任せ大公」(prince de Bienauvent) と呼ばれたように、時々の政体に応じて彼の政治的態度が変わることを示しているのである。

(この項、続く)

2014年5月16日金曜日

I-4 「なぞなぞ」(3)

敷石
 尻をかたどった石の塊のようなものはパリの街路の敷石である。この点について詩句は「背骨の下、仙骨のあたりに、ルーヴルの墓所からとってきた敷石が2個見える」とある。パリの敷石は7月革命のバリケードをつくるのに使ったことから、もともと革命の象徴となっていた。では「ルーヴルの墓所からとってきた」とはどういうことか。これはおそらく革命の3日目の7月29日にパレ・ロワイヤルやルーヴルで激しい戦闘があったことと関係している。ルーヴル宮には7月革命の戦死者たちの墓が置かれ、多くの参拝客を集めていたいたという(宮殿をを守っていたスイス傭兵たちの墓もあったようだ)。記念として敷石も置かれていたのだろうか。

 そこには自由のために死んだ者たちを哀悼する墓銘碑が多く飾られていた。「英雄よ、安らかに眠れ。あなたの霊を鎮めるために、息子は復讐するだろう。あるいは、父に続いて戦いに出た息子が数で敵に押しつぶされるならば、あなたの例にならって、彼も死ぬことになるだろう」「あなたの勇敢さを誇らしく思う妻は、いまだ寡婦のまま、あなたのおそばにおります。あなたが法を強固なものにするために亡くなったことに思いを馳せながら、この厳しい試練の仕打ちを耐え忍んでおります。」などなど。

 ルイ=フィリップはその墓所から象徴となる敷石を盗み、尻に当てるという非道な振る舞いをしている。革命を軽んじ、犠牲者を馬鹿にしているというわけだ。
 
放水器
 脚は浣腸器になっている。詩句では「浣腸器を履いて、わたしは、注射針の曲がったところを踵のかわりにして、後ろ向きに動かす」と書かれている。この浣腸器は、1831年5月5日から8日にパリで大規模なデモが行われたとき、鎮圧のために初めてパリ消防隊の放水器が使われたことを指している。なぜ「浣腸器」で描かれているかといえば、放水器にスカトロジックなイメージを与えるためであるが、そもそも浣腸器はフランスの伝統的な医者喜劇で使われる必須アイテムだった。

『カリカチュール』1833年12月5日号. 右端がロボー将軍

 この鎮圧の指揮をしたのが、パリ国民軍総指令長官のロボー伯爵だ。この事件以降、諷刺画に現れる浣腸器はロボーのアトリビュートとなる(ロボーと浣腸器については、項を改めて紹介しよう)。1830年12月、共和派に寛容なラファイエット将軍に代えて、強硬派のロボー将軍をパリ国民軍総指令長官に据えたこと、そして政府が放水器でデモ隊を蹴散らすような断固とした態度をとり始めたことは、反体制派からすれば明らかに革命にたいする裏切りである。「後ろ向きに」とは革命からの後退を意味している。

風車
 画面左奥に見える風車にはどんな意味があるか。これはルイ=フィリップが大革命時代、革命軍の士官として参加したヴァルミーの戦いを表している。1791年、立憲君主制を拒否したルイ16世はフランスからの逃亡を謀り、ヴァレンヌで捕まってしまう。これを知ったオーストリアとプロシアはルイ16世の復権と革命の正統性のなさを主張するピルニッツ宣言を発するが、これによって翌92年から始まるフランスの対外戦争の口火が切られ、同年4月20日、フランスがオーストリアに宣戦布告を行なう。8月18日になるとブルンシュヴィック率いるプロシア軍がフランスに侵攻する。しかし9月20日、騎兵連隊を率いたシャルトル公(当時のルイ=フィリップ)と弟のモンパンシエ公の参加する革命軍は、フランス北東部シャンパーニュ=アルデンヌ地方にあるヴァルミーにおいてプロシア軍を撃破する。

 この戦争は、革命直後でフランス軍の準備不足と指揮官不足(多くが貴族だった)によって苦戦が予想されていたが、フランス革命後初の軍事的勝利となった。ヴァルミーの戦いは軍事的というよりも政治的・精神的な意味合いが強く、革命精神の勝利としてフランスを勢いづかせる。これに力を得た革命派は、王政の息の根を止め、第一共和政の樹立へと向かうのである。この戦いに歴史の転換点を感じたゲーテが「ここから、そしてこの日から世界の歴史の新しい時代が始まる」と述べた所以である。また11月6日にはフランス国境にほど近いベルギーのジェマップにおいてもフランス軍はオーストリア軍に勝利している。

 国王ルイ=フィリップにとってヴァルミーとジェマップの戦いが重要だったのは、この記念碑的勝利に自らが大きく貢献したことだ。それは自分が革命の子であることを示す絶好の機会だった。1826年にオラース・ヴェルネ(1826)が描く「ヴァルミーの戦い」に続いて、国王はエロワ・フィルマン・フェロンに「ヴァルミーにおけるシャルトル公」(1847)を、アンリ・シェフェールに「ジェマップの戦い」(1834)を注文している。
オラース・ヴェルネ「ヴァルミーの戦い」(1826)
エロワ・フィルマン・フェロン「ヴァルミーにおけるシャルトル公」(1836)
アンリ・シェフェール「ジェマップの戦い」(1846)

 風車は、ヴァルミーの丘にあった有名なサン=ソーヴの風車で、フランス軍の勝利を表す象徴となっていた。現在のヴァルミーには2005年に復元された風車が立てられている。

現在のヴァルミーの風車
 諷刺画では、ことあるごとにヴァルミーへの参戦を誇らしげに語るルイ=フィリップをからかって、風車を国王のアトリビュートとしている。たとえば「フェルト」の項に掲げたシャラントン病院のルイ=フィリップは服の飾りにもそれは見られる(I-4 「なぞなぞ」(2))。また、1834年2月8日号の『シャリヴァリ』では、国王を鸚鵡に見立てて、止まり木に「ヴァルミー」「ジェマップ」の文字を書き込んでいる。いうまでもなく、彼が鸚鵡のように「ヴァルミー」「ジェマップ」と繰り返してばかりいることをあてこすっているのである。
『シャリヴァリ』1834年2月8日号


(この項、終わり)

2014年5月15日木曜日

I-4 「なぞなぞ」(2)



憲章
 背中は本のかたちをした「憲章」である。これは1814年にルイ18世が発布した憲章を1830年に改訂したものだ。これは1814年の憲章を引き継ぎながら、勅令の廃止、王権神授説の否定、「フランスとナヴァールの王」に代えた「フランス人の王」の称号の使用、カトリックの脱国教化、国旗としての三色旗の採用、そして検閲の廃止などを盛り込んだ。1830年8月7日に両院の議会で採択し、そのあと国王に推挙されたオルレアン公(ルイ=フィリップ)が憲章を順守することを約束した。
 
 ところでルイ=フィリップの背中の本には「憲章、真理、1830」という文字が見える。この3つの単語は、オルレアン公の言葉「憲章は今後、ひとつの真実となるであろう」を指している。7月革命のさなかパリ郊外のヌイイの自宅にいたオルレアン公はデュパンやティエールらの議員に懇請されて7月31日になってパリに戻ってくる。そして首都の壁に以下のような声明を貼りだすのだが、そのなかに「憲章は今後、ひとつの真実となるであろう」が出てくるのである。

   パリの住民たちよ
     現在パリに集っているフランスの代議員たちは、わたしに、首都へきて国王代理の職を務めてほしいと、伝えてきた。わたしはあなた方の危機をわかちあうことも、あなた方のような勇敢な住民のなかに身をおくことも、そして、あなた方を市民戦争や無政府状態という惨禍から守るためにあらゆる努力をすることも、ためらいはしなかった。
     わたしはパリの街に帰ってくるとき、あなたがたが(大革命以来)再び手にし、そして私自身が以前から掲げていたあの栄光の三色旗を堂々と持っていた。議会はまもなく招集されるであろう。そして法の支配と国民の権利の維持を確かなものとする方策が熟慮されるであろう。
     憲章は今後、ひとつの真実となるであろう。
                       ルイ=フィリップ・ドルレアン
                              

 「憲章は今後、ひとつの真実となるであろう」というのは、オルレアン公が、改訂される憲章がどのようになろうとも、それを必ず守ると約束した言葉である。しかし反対派から見ると、政権をとってからのルイ=フィリップは、憲章をないがしろにしているとしか思えない。特に、検閲こそしないものの、反政府系の新聞をあの手この手で規制し、事実上、報道や出版の自由を厳しく制限していった。反対派はその都度、「憲章は今後、ひとつの真実となるであろう」ということばを持ちだして、ルイ=フィリップ国王の約束違反をなじるのであった。

楽譜
 彼の左腕はフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」の楽譜でできている。これについて詩は「バルコニーで歌われた聖なるマルセイエーズがわたしの両腕を形づくっている」とある。これは先に述べた8月7日のことに関係する。この日、貴族院と代議院で議会が開かれ、改訂憲章を採択し、ルイ=フィリップ・ドルレアンを国王にすることを決めたあと、議員たちは、オルレアン公の住むパレ・ロワイヤルに向かい、この決定を彼に伝える。オルレアン公がそれを受諾すると、パレ・ロワイヤルの中庭に集まっていた人々が熱狂的に「国王万歳、オルレアン家万歳」と叫ぶ。そこで満面の笑みを浮かべたオルレアン公は家族やラフィット、ラファイエットらと連れ立ってバルコニーに立ち、民衆の歓呼に答える。人々が「ラ・マルセイエーズ」を声を限りに歌い出すと、オルレアン公も市民たちに声を合わせて歌ったのである。

 先に挙げた詩句はこの8月7日のエピソードを指している。つまりラ・マルセイエーズを一緒に歌うことによって民衆と次期国王が(仮そめのものであれ)一体感を感じたときのことである。しかし状況は国王ルイ=フィリップの保守化によって変わってしまった。そう言いたいのである。

フェルト
 版画ではルイ=フィリップの手のあたりがよく見えないのだが、詩句を読むと「腕の先には、たくさんの指の垢が染みついたフェルトが見える」とある。フェルトとは手袋のことで、国王が人々と握手を繰り返しているうちにそれが汚れてしまったことを指している。ルイ=フィリップは愛想よく誰かれかまわず握手をする人であったらしい。それは反対派の人たちからみると、「ブルジョワ王」らしく、庶民に好まれようとして気さくな人間を演出していた、ということになる。

 オルレアン公は1830年7月31日、革命の象徴ラファイエットとともにパリ市庁舎のバルコニーに立ち、市庁舎広場に集まる民衆に自分が革命精神を引き継いだことをアピールしてみせた。そして自宅のパレ・ロワイヤルへの帰り道、人々の歓呼のなか、居並ぶ多くの市民たちと握手を交わしたという。こうした次期国王の行為は当時にあってはおどろくべきことで、保守派の要人カジミール・ペリエに「君主制は共和制のまえに身を売った」と嘆かせたのだった。

 握手については、おそらく共和派寄りの人間が書いたと思われる『現代小史―フランスで起きた主なできごとを教師が生徒にかたるお話』(1832年)にも次のようなことが書かれている。「(ルイ=フィリップが国王に選ばれた)2日後、先生と外出した生徒たちは、新たな称号をもらったばかりの君主が道を通るところに出くわした。王が有象無象の民衆のところまで降りてくるのを見た彼らの驚きはいかばかりだったろうか。しかもあちらこちらの人々と親しげに握手までしたのだ!しかし、まもなく印刷物や掲示物を読んだとき、彼らの驚きはさらに大きくなる。王は、呼びかける相手を友達扱いすることになるからだ。「王様がぼくたちのお友達だって!」と(.... ) 無垢な心を持つ子どもたちは何度も口にした。」

 この文は、握手を振りまき、(今風にいえば)「タメ口」をきいて庶民派の王を気取るルイ=フィリップを彷彿とさせる。しかし一般民衆に親しげな態度は親譲りと言えるのかもしれない。父のフィリップ平等公も気さくに庶民と握手を交わし、耳障りのよい約束を連発したので、一般大衆には非常に評判が高かったという。
 結局、反政府の立場の共和派からすれば、ルイ=フィリップは、父と同じように庶民に愛されようと媚びへつらいながらも、いっぽうで強面の政治を続けていたということになる。

 最後に握手が現れる諷刺画をいくつか見ておきたい。
1)『カリカチュール』1832年10月4日号に掲載された庶民と握手をするルイ=フィリップ。この諷刺画の解説には、「『握手をするのが好きなところをみると、お前はあの例のホラ吹きに似ているなあ』と庶民の男が言っているのかもしれない」と書かれている。
庶民と国王の握手


2)『カリカチュール』1832年5月3日号の「道徳的、政治的猿まね」。後ろを向いたルイ=フィリップが、屑拾い、国民軍兵士、子どもと握手を振りまいている様子を猿の世界で例えている。
「道徳的・政治的猿まね」

3)『カリカチュール』1832年5月31日号「政治的シャラントン病院」。シャラントンにある有名な精神病院に収容されている政治家たちを描いている。彼らの政治的な姿勢をひとつの偏執狂として描いている。ルイ=フィリップはもちろん誰かれかまわず握手を求める狂人として描かれているが、左右にいる(三色旗の帽子をかぶった)共和派の人間に避けられている。
「政治的シャラントン病院」

(この項、続く)

2014年5月7日水曜日

I-4 「なぞなぞ」(1)

「なぞなぞ」

1834年1月9日号の『カリカチュール』に発表された「なぞなぞ」Enigme は、アルチンボルドの絵画を真似て、さまざまな物の寄せ集めで国王ルイ=フィリップの全身像をつくっている。国王の身体をかたちづくるひとつひとつのパーツは、それぞれが象徴的な意味を帯びて、大きな意味での国王の政治姿勢を皮肉るものとなっている。しかし、この諷刺画は特定の政治的問題や事件を扱っていないので、パーツ同士にほとんど関連性がなく、それは細部の意味を知る助けにはならない。

 したがって、国王の身体の各部分に込められた意味を読み解く手がかりは、諷刺画の下に添えられた「なぞなぞ」と題された詩だけである。しかも詩句そのものが思わせぶりたっぷりで、説明的というよりも暗示的に書かれている。読者はこの二重の謎を前にして、頭を絞らなくてはならないのである。

 こうした謎解き図像が可能になるためには、体系的な図像言語が背後になければいけない。諷刺画「なぞなぞ」が発表されたのは1834年1月9日。『カリカチュール』が発行されてほぼ4年、それまで349枚の諷刺画が出され、個々の政治家や政治的事件などが、この新聞独自のアトリビュートや象徴的な形象と結びつけられて繰り返し使われるうちに、ひとつの意味の体系性が徐々に形作られていた。『カリカチュール』の読者ならこのなぞなぞが読み解ける仕組みである。ここでは、図像に現れた細部をひとつひとつとりあげて、その解読を試みてみよう。

洋梨、傘、山高帽と蜂
 肖像画の人物が国王ルイ=フィリップであることは、その頭が洋梨になっていること、また傘と三色旗のついた山高帽を持っていることからわかる。傘と山高帽は「ブルジョワ王」ルイ=フィリップの愛用品だ。ことに、国王は王杖のかわりに傘を持っているのではないかと思われるほど、いつでも傘を手にしていた。そこを反体制派の諷刺画はからかっていたのである。

 また洋梨が当時、国王ルイ=フィリップの象徴であったことはよく知られている。その洋梨の上端と裾のほうに陰影がつけられているのは、髪の毛を示しているのだろうが、また一方でこの果物が熟していることをも暗示している。フランスのことわざに「洋梨が熟したら、あとは落ちるしかない」La poire est mûre, il faut qu’elle tombe. という表現がある。すでに腐りかけた7月王政の政権は倒れる運命にあるというわけだ。このことは洋梨のまわりに蜂が飛び交っていることからもわかる。熟れ過ぎた洋梨に虫が止まっている諷刺画はオーギュスト・ブーケ描く「洋梨と種子」(『カリカチュール』1833年7月4日号)にも見られる。洋梨のまわりに集まる蜂は、政権にうるさくつきまとう反体制派の新聞を指している。

「洋梨と種子」

鵞ペン
 では耳のあたりに載せている鵞ペンはなにか。これについて詩を読むと、「侵略[連合軍のパリ入城のこと]のあと、フランス国民への宣言に署名したペンと同じもの」と書かれている。これは1815年にナポレオンがワーテルローの戦いに破れた結果、イギリス、オーストリア、ロシアを中心とする連合軍がパリに進駐し、ルイ18世を国王とする復古王政が成立したとき、ルイ=フィリップ(当時はオルレアン公)がとった行動と関係している。

 フランス大革命のとき、オルレアン公(1793年までは「シャルトル公」)は、父のフィリップ平等公と同じく大革命を支持して、ヴァルミー、ジェマップの戦いに革命軍の士官として参加した。しかし1793年以後、貴族である彼は共和国から追放されると同時に、革命時代の行動によって亡命中の王党派から憎悪され、スイス、スウェーデン、アメリカ、イギリス、シチリア(このころナポリ王の娘、マリ=アメリと結婚)を転々として、1814年にフランスに帰国する。この間、イギリスでオルレアン公は革命軍への参加を「若気のいたり」と自己批判してブルボン本家への忠誠を誓っている。これにたいしてルイ18世は寛容にも彼を赦して、王政復古後には宮廷への出入りを認めたばかりか、その借金も肩代わりしてやっている。ところが、オルレアン公は、ナポレオンがエルバ島を脱出して政権をふたたび握り、ルイ18世が失脚すると、ブルボン家が1789年、1814年と二度にわたって王座から転落した原因を探る文書を発表する。その中で彼は、フランスの王をブルボン家ではなく、分家であるオルレアン家に代えることを匂わせる提案を行っているのである。

 こうした従弟のやり方にルイ18世が激しく怒ったので、オルレアン公は前言を撤回しなくてはならなくなった。それが1815年、フランス国民にたいして行った宣言である。「正統王位継承権の原則は今日、フランスのみならずヨーロッパの平和を保証する唯一のものである。革命のときほど王位継承権の力と重要性を強く感じさせたものはなかった。そうなのだ、フランス国民よ、自分がフランスを統治することにでもなれば、わたしもそれを誇らしく思うだろう。もっとも、それは、名家であるブルボン家が断絶してわたしが王に指名されるという、わたしにとって大きな不幸が起きた場合の話ではあるが。」
 こうした宣誓にもかかわらず、第二王政復古を実現してパリに戻ったルイ18世の怒りは収まらず、オルレアン公はすぐに帰国することができなかった。しかし国王の弟アルトワ伯(のちのシャルル10世)のとりなしによってなんとか彼はフランスの土を踏むことが許されたのだった。

 諷刺画に戻ろう。このフランス国民への宣言がなぜ国王ルイ=フィリップを皮肉る材料になるのか。それは、宣言の内容と7月王政の成立過程が矛盾するからだ。かつてルイ=フィリップ(オルレアン公)は、宣言のなかで、正統王位継承権こそが重要であると強調していた。しかしルイ=フィリップ国王は成立直後からその正統性のなさを反対派、とくにブルボン家を支持する正統王朝派から指弾されていたのである。

 7月革命が起きたとき、国王シャルル10世は事態を収拾するために退位し、王位を当時10歳だった孫のボルドー公(シャンボール伯アンリ・ダルトワ、アンリ5世)に譲り、オルレアン公を国王代理に任命した。しかし革命後の騒擾が続き、社会の安定化が急務となる状況のなか、ブルボン家の意向を無視して、オルレアン公は議会の要請を受けるかたちでそのまま国王となってしまう。これまでのように正統な手続きで王位を継承したのではなく、いわば国民に押し上げられるかたちで国王となった。ルイ=フィリップが「フランス人の王」「バリケードの王」と呼ばれる所以である。したがって反体制派、とくにブルボン家を中心とする正統王朝派からしてみれば、ルイ=フィリップは王位簒奪者ということになる。

 つまり皮肉なことに、ルイ=フィリップは「革命のときほど王位継承権の力と重要性を強く感じさせたものはない」と言いながら、1830年の革命では「正統王位継承権」を無視している。また、自分が国王になる条件として、ブルボン家が断絶するという不幸が起きることを挙げていた。しかし彼は事実上シャルル10世とアンリ5世を国外に追放し、ブルボン王朝を断絶させることによって、自らが王座に着いた。諷刺画は、ルイ=フィリップが口先だけの人間、約束を違えてたやすく他者を裏切る人間であることを暗に示している。

ハンカチ
 次のアイテムは首に巻かれたハンカチである。これについて詩句では「わたしは自分の喉に襟をつける代わりに、最後のコンデ公の歴史的なネクタイを当てる」とある。これは、巨万の富を持っていた独身貴族コンデ公が7月革命の直後、ハンカチでつくった紐を使って首吊り自殺をした怪事件のことを指している。事件がなぜルイ=フィリップと関係するのか、それには長い説明がいるので、別の機会に述べることにしよう。

金の袋、左官屋の鏝、モルタル用の槽
 ルイ=フィリップの腹は1000フランの詰まった袋、左手は左官屋が使う鏝、右手は曲尺からできている。1000フランの袋はいかにルイ=フィリップが金に執着し、吝嗇だったかを示している。シャトーブリアンも、ルイ=フィリップが愛しているのは金と家族だけだと吐き捨てるように述べている。

 左手の「左官屋が使う鏝」とお尻になっている「モルタル用の槽」は『カリカチュール』(1831年6月30日号)に掲載された「壁の塗替え」という諷刺画のことを指している。それは左官屋に化けたルイ=フィリップが壁の落書きを鏝できれいに塗り消そうとしている図である。版画の分析は別の機会に譲るが、落書きにはルイ=フィリップが政権発足時に約束した民主主義的政策などが書かれている。国王の約束違反をここでは揶揄しているのである。

「壁の塗替え」


曲尺と設計図
 右手の代わりになっている水準器つきの曲尺は、彼のエプロンとなっている設計図と共に、当時政権が進めていた分離要塞の建設のことを指し示している。ここでいう分離要塞とは、パリを囲む徴税請負人の城壁(1784~1790年に建設)の外側に設置された一連の要塞のことである。パリはほかの都市とちがって、1670年以降、都市防衛のための連続した城壁が存在しなかった。かつてない繁栄と平和を築いたルイ14世がそれまであった城壁は不要として破壊してしまったからである。そののち首都防衛のために要塞の建設が必要とされて、7月王政期においても長期にわたって議論されてきた。それがようやく1841年になって、1億4000万フランを投じて要塞が本格的に建設されることになったのである。パリ郊外28~69キロの円周上にある軍事拠点(シャラントン、ノジャン、イヴリーなど)に、16の分離要塞がつくられた。

 これらの要塞の建設目的は、帝政末期の1814年に、イギリス、ロシア、オーストリアなどの連合軍によるパリ占領を簡単に許してしまった苦い経験をもとに、首都を外敵から防衛することにあった。しかし、また一方では、1832年、1834年にパリで起きた大規模な反乱を念頭において、首都での蜂起にたいする抑止効果を狙ったとも言われる。分離要塞の大砲はパリの外にではなく、内側に向けられていると共和主義者たちが批判したのはこの点だ。1841年の議会で、発案者のティエールはこうした共和派などから出された懸念を打ち消そうと「城塞の堡塁が自由や秩序を損なうと考えるのはまったくもって現実離れというものだ」と答弁している。版画に描かれた曲尺と設計図は、反体制派を弾圧しようとするルイ=フィリップの企みを暴いているのである。

 「謎々」についての分析は次回も続くが、最後に『カリカチュール』に掲載された分離要塞を扱った諷刺画を紹介しておこう。

1)パリの地図を見ながら分離要塞の建設を計画する国王ルイ=フィリップ。
『カリカチュール』(デスペレ作、1833年8月29日号)
『カリカチュール』1833年8月29日号

2)分離要塞に陣取る政府系の新聞と、それを攻撃する反政府側の新聞の闘い。
『カリカチュール』(デスペレ作、1833年6月27日号)

『カリカチュール』1833年6月27日号

3)分離要塞をパリ近郊に配置して、民衆の反乱を抑える準備は怠りない。
 『カリカチュール』(フィリポン&ヴァティエ作、1831年12月15日号)
『カリカチュール』1831年12月15日号






(この項、続く)