グランヴィルは中学のころ学校に通うのがいやで、細密画家をやっていた父に願い出て、その工房の見習いとなった。1825年、グランヴィル22歳のころ、たまたまナンシーにやってきた父の友人マンシオンが彼の才能に驚いて、パリにある自分のアトリエで働いてみないかと誘う。こうしてグランヴィルはパリにやってくる。
このマンシオンという人も細密画家だった。細密画というのは肖像や風景などを、水彩、グアッシュ、油彩などで細部まで緻密に描いた小型の絵で、18世紀から19世紀前半にかけて大いにもてはさやれた。しかしグランヴィルはマンシオンのアトリエでの仕事にたいして情熱を持てなかったようだ。ミニアチュールに関していえば「彼は何枚かの肖像画を描いただけだった。それらの肖像画は実物によく似ていたものの、腕の立つ点描画家ならば絵に与えることができる色調のみずみずしさを欠いていた」と同時代のノレ=ファベールは証言している。細密画は措くとしても、この時期のグランヴィルにとって重要なことは、1827年に『サロンの女予言者』という52枚の占いカードを発表したことである。これは当時の慣例で、師であるマンシオンの名前で発表されたが、版画家グランヴィルの事実上のデビュー作になった。
このマンシオン、本名アンドレ=レオン・ラリュAndré-Léon Larue はいったいどんな人だろうか。彼は1785年にナンシーに生まれているが、没年はわかっていない。少なくとも1834年までは生きていた形跡があるが、1870年まで生きたという説もある。彼は細密画家であった父やジャン=バティスト・イザベイ(1767−1855)の弟子だった。ふつうは象牙に大型の細密画を描いていたが、ときには犢皮紙、磁器、琺瑯などにも描いた。彼はナポレオンの皇妃マリ=ルイーズの肖像細密画(1812年)のほか、帝政期の俳優、芸術家、貴族などの細密画も数多くつくっている。なかには1830年ころに国王ルイ=フィリップの肖像画も残っている。
マンシオン「マリ=ルイーズの肖像細密画」1812年 |
このように活躍したマンシオンだったが、彼のその後の活動を見ると、肖像細密画というジャンルの栄光と悲惨を象徴しているように思われる。人気を得ていた肖像細密画は19世紀中頃になると、1839年にダゲールが発表した銀版写真から始まる写真の発展によって大きな打撃を被る。
エアロン・シャーフの『芸術と写真』によれば、1830年、イギリスのロイヤル・アカデミーの展覧会では、1278点の展示作品のうちミニアチュールは300点にものぼったという。それが1866年には64点、70年には33点に激減する。その理由は、肖像細密画がより安価で簡単にできるダゲレオタイプ(銀版写真)の肖像写真にとって代わられたことによる。
仕事が減少した細密画家のなかには写真家に転向する者も多くいた。たとえばベルリンやハンブルクには1850年以前、59人の銀版写真家がいたが、そのうち29人が過去に画家であったり現在画家である者で、そのほかに石版画家だった者と版画家だった者が一人ずついたという。この事情はロンドンでも変わりはない。さらに大きな視点でいうならば、写真は肖像細密画だけにとどまらず、絵画一般にも深刻な影響を及ぼしていた。ポール・ドラロッシュのアトリエで学んでいたギュスターヴ・ル=グレー、アンリ・ル・セック、シャルル・ネーグル、ロジャー・フェントンなどが1850年前後になって写真家に転向したように、画家志望の若者たちが写真家になった例は少なくない。
また一方、写真家に転向せず、肖像細密画の修正や色付けをする者たちもいた。当時、写真の大きな欠点のひとつは、色彩がないことだった。それを補うために写真の彩色に細密画家が求められた。また銀版写真を補正する技術もなかったことから、筆で修正を加えるためにも画家の手が必要だったのだろう。先に掲げたルイ・フィリップ国王の肖像細密画を見ると、高さ10cm弱という小ささにもよるのだろうが、大きな肖像画とはちがって、写真に近いリアリティが感じられる。細密肖像画と写真が競合するわけである。
マンシオン「ルイ・フィリップの細密肖像画」1830年ころ |
アントワーヌ・クローデ「ルイ・フィリップの肖像写真」1842年 |
マンシオンはこちらの生き方を選んだ。時期は特定できないのだが、彼はロンドンに渡り、細密画家の仕事を続けながら、アントワーヌ・クローデなどの銀版写真家の下で写真を色付けをしていたという。アントワーヌ・クローデ (Antoine Claudet, 1797-1867) はもともと銀版写真を発明したルイ・ジャック・マンデ・ダゲールの弟子で、1841年以降ロンドンに渡り、ロンドンで最初期の銀版肖像写真家として活躍した人である。マンシオンがロンドンに渡った経緯はわかっていない。ロンドンでの細密画の需要を見込んでイギリスに旅だったのかもしれないし、あるいは細密画に未来がないことを予感して、アントワーヌ・クローデの誘いに乗ったか、彼に色付け師の仕事を頼み込んだのかもしれない。
もしグランヴィルが、父の仕事を素直に継いだり、パリに出てマンシオンのアトリエでそのまま働いていたりしたら、彼もマンシオン同様、仕事が激減して、写真の色付け師に転向したことも考えられる。幻灯、シルエット、写真など同時代に発展する光学装置に強く惹かれていたグランヴィルである、ひょっとしたらル・グレーやネーグルのように、写真家になっていた可能性もなくはない。ただ初期の写真家たちの多くが1820年前後に生まれていることを考えると、1803年生まれで1840年代には40歳になろうとするグランヴィルが写真家に転向するはもう遅すぎたとも言える。