2014年4月26日土曜日

Ⅰ-1 「贖罪・洋梨記念碑計画」(2)

 「贖罪・洋梨記念碑計画」を掲載した『カリカチュール』が発行されると、関係者を巻き込む大きな問題に発展する。それは諷刺画のせいというよりも、間の悪い偶然が重なったせいである。発行直前の6月5日、6日にパリで大規模な蜂起が起きてしまったのだ。

 この蜂起は、当時人気のあった革命期・帝政期の将軍ラマルクの葬儀をきっかけとして、共和派がルイ=フィリップの政権を打倒しようとして起こしたものである。この反乱はユゴーの『レ・ミゼラブル』でジャン・ヴァルジャンがマリウスを連れて地下水道に潜るエピソードの背景にもなっている。蜂起の原因は、深刻な経済危機があった。また政治的には革命の精神を引き継ぎ社会改革を進めようとする「運動派」(つまり「革命運動」を進める勢力)のラフィット首相に代わって、1831年3月に「抵抗派」(つまり革命に「抵抗」する勢力)のカジミール・ペリエ内閣ができたことが大きかった。7月革命はたんなる王朝の交代劇にすぎないとして保守的な政策をめざす「抵抗派」のペリエは、革命以来絶えなかった反政府的な示威活動や暴動にたいして断固とした姿勢で望んだ。ペリエ首相自身は32年5月に流行したコレラに罹って死んでしまうのだが、コレラが増大させた社会不安や政治不信に乗じて、共和派は蜂起をしたのである。

 フィリポンは諷刺画「贖罪・洋梨記念碑計画」を『カリカチュール』6月8日号の発行前に、ギャルリー・ヴェロ=ドダにある新聞の発行元オーベール商会のショーウインドーに早々と飾っていたらしい。とすれば、「贖罪・洋梨記念碑計画」は内容が内容だけに、その諷刺画が6月5・6日の蜂起を呼びかけたと解釈される可能性が出てきた。それを懸念したフィリポンは6月8日号の発行停止を考える。ところが、彼はこれまでの度重なる政府批判によって、そのとき懲役刑を受けていて自由の身ではなく、シャイヨーにあるカジミール・ピネルの病院にいた。これは、本来ならサント=ペラジー監獄に収監されるべき当時の政治犯にたいする緩和措置だったようだ。ピネルの病院には、政府批判によって有罪となったアルマン・マラスト、オノレ・ドーミエのほか、『グローブ』紙のポール・フランソワ・デュボワなどもいて、彼らは比較的自由に暮らすことができた。これと似たような例はベリー公夫人の陰謀に加担した容疑で1832年6月20日に逮捕されたシャトーブリアンで、彼は警視総監アンリ・ジスケの特別な配慮によって、総監宅に「勾留」されていた。



ギャルリー・ヴェロ=ドダ入口

ギャルリー・ヴェロ=ドダ内部

 蜂起が起こったことに危険を感じたフィリポンは6月5日夕刻、ピネルの病院から使者に手紙をもたせ、6月8日号の発行停止を指示しようとした。しかし運の悪いことに使者は検問で止められて逮捕され、そのまま21日間勾留されてしまう。翌6日になると政府は、蜂起を力で押さえつけようとしてパリに戒厳令を発し、反政府系の新聞の発刊停止を命じた。発刊中止の指示は新聞社に届かなかったため、『カリカチュール』は政府の命令を無視して発行されたかたちになってしまった。ほとんどの新聞は、当局が行った郵便物発送所での差し押さえで止められた。もっとも、なかには差し押さえが間に合わず、すでに配達されてしまったものもあったようだ。

 翌7日になると、200人の兵士がピネルの病院にやってきて、「囚人」となっている新聞の発行責任者たちを強制連行していった。フィリポンは、からくもその直前に窓から逃げて姿をくらましていた。その後彼は潜伏先から政界の大物シャトーブリアンに手紙を送って、警視総監ジスケに、警察に出頭するのでサント=ペラジー監獄ではなくシャイヨーの病院に戻れるように頼んでもらえないかと依頼している。この手紙のやりとりについては、宮原信「フィリポン、シャトーブリアン、ジスケ」(神奈川工科大学研究報告、平成14年3月)に詳しいので、そちらを参照してもらうこととして、フィリポンの手紙は、ふだん『カリカチュール』に書くようなことば遊びに満ちた辛辣な文章とはちがって、自分の子供と妻にたいする愛情のあふれた率直な文章で書かれている。それにしてもなぜそれほどまでにフィリポンを恐れさせたのだろうか。戒厳令下にあっては、被告は軍事法廷に立たなくてはならなくなるからだ。これまで7月王政になってから、反政府系の新聞は名誉毀損などの名目で何回も起訴されてきたが、裁判では無罪になることも多かった。裁判は通常、陪審員制度によって行われており、陪審員には共和派や正統王朝派の人間も多く、政府の姿勢に反対する者も少なくなかったからである。しかし戒厳令下の軍事法廷でははるかに厳しい判決が下される可能性が高かった。最終的にシャトーブリアンのジスケへの働きかけは功を奏したようで、フィリポンはシャイヨーの病院に戻ることができたのである。

 「贖罪・洋梨記念碑計画」の審理は1833年1月28日に行われる。このときのフィリポンはいつもの辛辣さを取り戻しており、検事側が、諷刺画によって被告は国王殺害の教唆をしたと述べたのにたいして、フィリポンは諷刺画に見られるのは洋梨のジャムづくりの教唆程度のものではないか、と切り返している。結局、『カリカチュール』6月8日号自体は違法であるが、発行停止の指令を出している被告人には法を犯す意志がなかったということで無罪となった。

  最後に「贖罪・洋梨記念碑計画」に似た諷刺画をあげておこう。1833年3月13日の『シャリヴァリ』に発表された洋梨形のオベリスクである。この記念碑のまわりでは政府の要人たちが、思い思いのやりかたで、その建立を祝い喜んでいる。なお、洋梨のヘタのかわりにうずくまった悪魔が描かれている。
 ここでオベリスクが使われたのは、1830年代初期にエジプトのムハンマド・アリがルイ=フィリップにルクソールのオベリスクを贈ることを約束し、1836年にコンコルド広場にそれが建てられたことと関連している。30年代を通じて、オベリスクやその表面に書かれた象形文字はパリ市民の話題となっていたのである。






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