2014年6月21日土曜日

III-1 グランヴィル補遺

 J.J グランヴィルはナンシーに育ったが、あるとき父の友人のマンシオンに勧められてパリにいくことになった。グランヴィルを新たな世界に導いたこのマンシオンという人物について興味深いことがわかったので、ここではそれについて書いてみたい。

 グランヴィルは中学のころ学校に通うのがいやで、細密画家をやっていた父に願い出て、その工房の見習いとなった。1825年、グランヴィル22歳のころ、たまたまナンシーにやってきた父の友人マンシオンが彼の才能に驚いて、パリにある自分のアトリエで働いてみないかと誘う。こうしてグランヴィルはパリにやってくる。

 このマンシオンという人も細密画家だった。細密画というのは肖像や風景などを、水彩、グアッシュ、油彩などで細部まで緻密に描いた小型の絵で、18世紀から19世紀前半にかけて大いにもてはさやれた。しかしグランヴィルはマンシオンのアトリエでの仕事にたいして情熱を持てなかったようだ。ミニアチュールに関していえば「彼は何枚かの肖像画を描いただけだった。それらの肖像画は実物によく似ていたものの、腕の立つ点描画家ならば絵に与えることができる色調のみずみずしさを欠いていた」と同時代のノレ=ファベールは証言している。細密画は措くとしても、この時期のグランヴィルにとって重要なことは、1827年に『サロンの女予言者』という52枚の占いカードを発表したことである。これは当時の慣例で、師であるマンシオンの名前で発表されたが、版画家グランヴィルの事実上のデビュー作になった。

 このマンシオン、本名アンドレ=レオン・ラリュAndré-Léon Larue はいったいどんな人だろうか。彼は1785年にナンシーに生まれているが、没年はわかっていない。少なくとも1834年までは生きていた形跡があるが、1870年まで生きたという説もある。彼は細密画家であった父やジャン=バティスト・イザベイ(1767−1855)の弟子だった。ふつうは象牙に大型の細密画を描いていたが、ときには犢皮紙、磁器、琺瑯などにも描いた。彼はナポレオンの皇妃マリ=ルイーズの肖像細密画(1812年)のほか、帝政期の俳優、芸術家、貴族などの細密画も数多くつくっている。なかには1830年ころに国王ルイ=フィリップの肖像画も残っている。


マンシオン「マリ=ルイーズの肖像細密画」1812年

 このように活躍したマンシオンだったが、彼のその後の活動を見ると、肖像細密画というジャンルの栄光と悲惨を象徴しているように思われる。人気を得ていた肖像細密画は19世紀中頃になると、1839年にダゲールが発表した銀版写真から始まる写真の発展によって大きな打撃を被る。

 エアロン・シャーフの『芸術と写真』によれば、1830年、イギリスのロイヤル・アカデミーの展覧会では、1278点の展示作品のうちミニアチュールは300点にものぼったという。それが1866年には64点、70年には33点に激減する。その理由は、肖像細密画がより安価で簡単にできるダゲレオタイプ(銀版写真)の肖像写真にとって代わられたことによる。

 仕事が減少した細密画家のなかには写真家に転向する者も多くいた。たとえばベルリンやハンブルクには1850年以前、59人の銀版写真家がいたが、そのうち29人が過去に画家であったり現在画家である者で、そのほかに石版画家だった者と版画家だった者が一人ずついたという。この事情はロンドンでも変わりはない。さらに大きな視点でいうならば、写真は肖像細密画だけにとどまらず、絵画一般にも深刻な影響を及ぼしていた。ポール・ドラロッシュのアトリエで学んでいたギュスターヴ・ル=グレー、アンリ・ル・セック、シャルル・ネーグル、ロジャー・フェントンなどが1850年前後になって写真家に転向したように、画家志望の若者たちが写真家になった例は少なくない。

 また一方、写真家に転向せず、肖像細密画の修正や色付けをする者たちもいた。当時、写真の大きな欠点のひとつは、色彩がないことだった。それを補うために写真の彩色に細密画家が求められた。また銀版写真を補正する技術もなかったことから、筆で修正を加えるためにも画家の手が必要だったのだろう。先に掲げたルイ・フィリップ国王の肖像細密画を見ると、高さ10cm弱という小ささにもよるのだろうが、大きな肖像画とはちがって、写真に近いリアリティが感じられる。細密肖像画と写真が競合するわけである。

マンシオン「ルイ・フィリップの細密肖像画」1830年ころ

アントワーヌ・クローデ「ルイ・フィリップの肖像写真」1842年

 マンシオンはこちらの生き方を選んだ。時期は特定できないのだが、彼はロンドンに渡り、細密画家の仕事を続けながら、アントワーヌ・クローデなどの銀版写真家の下で写真を色付けをしていたという。アントワーヌ・クローデ (Antoine Claudet, 1797-1867) はもともと銀版写真を発明したルイ・ジャック・マンデ・ダゲールの弟子で、1841年以降ロンドンに渡り、ロンドンで最初期の銀版肖像写真家として活躍した人である。マンシオンがロンドンに渡った経緯はわかっていない。ロンドンでの細密画の需要を見込んでイギリスに旅だったのかもしれないし、あるいは細密画に未来がないことを予感して、アントワーヌ・クローデの誘いに乗ったか、彼に色付け師の仕事を頼み込んだのかもしれない。

 もしグランヴィルが、父の仕事を素直に継いだり、パリに出てマンシオンのアトリエでそのまま働いていたりしたら、彼もマンシオン同様、仕事が激減して、写真の色付け師に転向したことも考えられる。幻灯、シルエット、写真など同時代に発展する光学装置に強く惹かれていたグランヴィルである、ひょっとしたらル・グレーやネーグルのように、写真家になっていた可能性もなくはない。ただ初期の写真家たちの多くが1820年前後に生まれていることを考えると、1803年生まれで1840年代には40歳になろうとするグランヴィルが写真家に転向するはもう遅すぎたとも言える。
 
 

2014年6月15日日曜日

I-6 「壁の塗り替え」(2)


 「自由は世界を駆けめぐる」
 ルイ=フィリップの左肘の後ろ辺りに書かれている落書きには「自由は世界を駆けめぐる、7月29日」la liberté fera le tour du monde, 29 juillet とある。これは読んだとおり、7月革命が大革命と同じく、フランス国内のみならず他国の国民に大きな力を与え、自由を求める運動として世界に広がっていったことを意味している。それが消されようとしているということは、I-3 「ワルシャワの秩序は保たれている」で見たとおり、ルイ=フィリップの政府がヨーロッパの保守的な列強に配慮して対外的な事なかれ主義をとり、ポーランド、イタリアなどで起きた自由主義運動を見殺しにしたことを示している。いわば革命的伝統をフランスは捨てたということである。

 ところで、この「自由は世界を駆けめぐる」la liberté fera le tour du monde という表現は当時よく使われていたようで、大革命期に愛唱されたと思われる「赤いフリギア帽の旅」Les Voyages du bonnet rouge というシャンソンにも「ついに、パリから日本まで、アフリカからラップランドまで平等は根づいていく。暴君たちよ、運命の賽は投げられた。自由のフリギア帽は世界を駆けめぐるだろう」Le bonnet de la liberté fera le tour du monde という歌詞が入っていた。歌詞のなかで、辺境にまで平等が広まったことを示すのに、「日本」Japon と「ラップランド」 Lapon で韻を踏ませている。日本人としては苦笑せざるを得ないが、それはともあれ、自由と平等を掲げたフランスが先頭に立って世界中にそれを広めていく、というところに国の矜持があった。いわば「世界の中心で自由を叫ぶ」というわけである。その詳しい分析はのちに譲るとして、こうした理想に導かれるようにして、7月革命後には『シルエット』(1830年12月6日号)にその名もまさしく「自由は世界を駆けめぐる」と題された版画が、そして1848年2月革命のときには、ソリユーの「社会民主的な世界共和国」が描かれる。


「自由は世界を駆けめぐる」『シルエット』1830年12月6日号

ソリユー「社会民主的な世界共和国」(1848年)


「クレドヴィルは泥棒だ」
 またルイ=フィリップの腰のあたりの落書きには、「クレドヴィルは泥棒だ」Crédeville est un voleur と書かれている。これはルイ=フィリップと関係のない落書きである。「クレドヴィル」という落書きは1820年代末になって、「ブージニエの鼻」le nez de Bougnier と同じように、パリの壁という壁によく書かれたという。ついで1830年になるとルイ=フィリップの諷刺である「洋梨」の絵が現れ、クレドヴィル、ブージニエの鼻、洋梨は、落書きの3大トリオとなって、パリの街に氾濫した。さらに、シャルル・モンスレによれば、これらの落書きはパリばかりでなく、なんとエジプトのピラミッドにも3つ揃って描かれたという。

 クレドヴィルにはいくつかの説がある。ひとつは、画家の卵たちの悪ふざけである。生真面目な画家クレドヴィルをからかってやろうと、画家仲間たちがいたるところに赤い石墨で「泥棒クレドヴィル」と書いて、当局の注意を惹こうと考えたらしい。また別の説では、最初にクレドヴィルの名前をパリの壁に落書きしたのは、少し頭のおかしいプラム売りの女だった。彼女は帝政期にクレドヴィルと婚約していたのだが、ナポレオンの没落後、男と生き別れになって精神に変調をきたしたらしい。彼女は婚約者と再会したい一心でパリの壁という壁にクレドヴィルという名前を書いたという。さらに、クレドヴィルは犯罪者で、逮捕後にジャン・ヴァルジャンのように強制労働をしていたという説もある。徒刑場をまんまと脱獄した彼は、その威信にかけて捜索する警察を尻目に、フランス各地で「泥棒クレドヴィル」と落書きして当局をからかったのだという。日本の盗賊や暴走族に倣っていえば「クレドヴィル参上」というところではないだろうか。

「ブージニエの鼻」 
 ことのついでに「ブージニエの鼻」についても書いておこう。こちらはもっとよく事情がわかっている。ブージニエ Bouginier は本名アンリ・ブージュニエ Henri Bougenier (1799−1866)といい、19世紀の初頭、新古典主義のグロのアトリエで学んだ画家で、サロンにも何度か出品したあと、写真家に転向したらしい。彼が友だちの画家たちにからかわれたのは、その大きな鼻のせいだった。当時のことを回想するかたちのエッセイ『パリのイギリス人』という本によれば、ブージニエは、同時代の文学者のシャルル・ラッサイ、国立自然史博物館の館長を務めたアントワーヌ=ロラン・ジュシユー、俳優のイアサント、そして、7月王政の政治家で『カリカチュール』の標的にもされていたダルグーと並んで、大きな鼻で有名だったという。

シャルル・ラッサイ

アントワーヌ=ロラン・ジュシユー(ダヴィッド・ダンジェ作)

イアサント



 なぜだがわからないが、パッサージュ・デュ・ケールの入り口にはかつてブージニエの諷刺肖像が掲げられていた。図を見るとなるほどからかわれるのも無理はない。そこには落書きの流行に欠かせない「華」があるではないか。
パッサージュ・デュ・ケールのブージニエ


 それにしても、「クレドヴィル」「ブージニエ」のどちらも画家たちの悪ふざけという点が目を惹く。なるほど当時「画学生の悪ふざけ」farce de rapin ということばがあるくらい、美術学校の学生たちは冗談やら洒落やらいたずらが好きだったようだ。バルザックの『ゴリオ爺さん』にも次のような一節がある。「最近発明されたディオラマは、(…)ほうぼうの画家のアトリエで、語尾にラマをつけて話をする冗談を生み出した。」そして小説の舞台となる下宿屋ヴォケール館では、常連の若い画家を中心に、「健康」のことを「サンテラマ」、「すごい寒さ」のことを「フロワトラマ」などという言い回しが流行ったりするほどになった。
 もっとも画家となれば、「ブージニエの鼻」だとか「洋梨」などのカリカチュアはお手のものだ。若い画家たちが人の特徴を捉える諷刺画に手を染めるのも不思議はない。後年パリ・オペラ座を設計することになるシャルル・ガルニエも、17歳で美術学校に入学してから諷刺画に手を染めていた。最後にそのいくつかの例を掲げて、今回の終わりとする。
「ポール・ボードリ」(シャルル・ガルニエ)

「諷刺自画像」(シャルル・ガルニエ)1850年


(この項続く)

I-6 「壁の塗り替え」(1)

「壁の塗り替え」『カリカチュール』1831年6月30日号

   I-4「なぞなぞ」(1)で簡単に触れた「壁の塗り替え」le Replâtrage (『カリカチュール』1831年6月30日)を詳しく見てみたい。この版画では左官屋の姿をしたルイ・フィリップが「7月29日通り」の汚れた壁を塗りなおしている。「7月29日」とは7月革命が起こった日であり、落書きの「自由のために死す」「自由は世界を駆け巡るであろう」「市庁舎での将来構想」などは、革命の精神や、ルイ・フィリップが国王になったときに示した政治姿勢を表している。それが今やすっかり消されつつあるというのだ。面白いのはルイ・フィリップの姿である。彼は労働者風のスモックを着て左官に化けているが、胸元から軍服が覗き、また庶民にふさわしくない華奢な靴を履いている。庶民の代弁者の触れ込みだった国王の正体見たり、というわけだ。

「自由のために死す」
 では細部を見て行きたい。ルイ=フィリップが漆喰で消そうとしている落書きにはなにが書かれているのか。一番上には「自由のために死す」la mort pour la libérté とある。これに説明の必要はないだろう。7月革命の際に多くの市民が、シャルル10世政府を打倒し、自由を回復させるために死を賭して戦ったことを指している。

「市庁舎での将来構想」
 その下に書かれているのは、「ラファイエット」Lafayette、「市庁舎での将来構想」Programme de l’Hôtel de Ville(その大部分は消えている)である。「市庁舎での将来構想」とは、国王になる直前のオルレアン公が大革命の象徴的人物ラファイエットと会談をして取り決めたといわれるもので、立憲君主制のもとで共和主義的な政策を実現していくという構想であったようだ。「であったようだ」と書いたのは、この構想が現実にあったのかなかったのか、7月王政発足当時から大きな議論になっていたからである。

 革命を賭けた「栄光の3日間」の翌日1830年7月30日に、銀行家であり政治家でもあるラフィットと連携したジャーナリストのティエールとミニェが、革命の混乱を早期に収拾すべくオルレアン公を国王にしようと考え、いち早く次のような文書をパリ中に貼りだす。

 「シャルル10世はもはやパリに入ることはできない。彼は民衆の血を流したからである。しかしフランスが共和国となれば、我々は恐ろしい内紛に直面することになるであろうし、ヨーロッパの諸外国との不和を招くであろう。オルレアン公は革命の大義に身を捧げた王族である。オルレアン公はこれまで一度として我々に刃を向けて戦ったことはない。オルレアン公はジェマップにいた。オルレアン公は市民王である。オルレアン公は戦場で三色旗を掲げていた。そして今もなお三色旗を掲げることのできるのはオルレアン公だけである。我々が彼以外の者を望むことは絶対にない。オルレアン公は、我々がこれまでに願い、考えていたかたちの憲章を受け入れている。彼が王冠を受け継いだのは民衆からである」

 これと連動するように30日午後になると、共和派の動きを恐れる議員たちが議会に集まり、オルレアン公に国王代理を受け入れを要請する決議を行なう。こうしてお膳立ての整った30日深夜、革命派と反革命派の争いに巻き込まれることを嫌って郊外に身を潜めていたオルレアン公は、ヌイイからパリの住居であるパレ・ロワイヤルに帰ってきた。そして翌日、彼はパリ市庁舎でラファイエットと会談を行なうことにする。自分が国王になるためには市民の前に姿を現すことがぜひとも必要だったからである。

 一方、パリ市庁舎に陣取った革命派たちは、ラファイエット将軍を担いで共和制を実現しようとしていた。しかし当のラファイエットはシャルル10世に引導を渡したものの(「いかなる和解も不可能であり、王家の支配は終わった」という7月29日の発言)、彼は必ずしも共和国の成立を無条件に支持していたわけではない。国民の意志を尊重してアメリカ式の共和主義体制を実現したいと考えていたが、その一方で、平和が必要な今このときに共和制を無理強いして、国内が混乱に陥り、諸外国が介入してくることを恐れていた。ラファイエットは決断力の乏しい人だったようだが、このときも、彼は大いに迷っていた。自分の友人でもあり、オルレアン公に近いジェラール将軍や議員のバロー、モーギャンたちから王制の採用を働きかけられていたし、さらに7月31日の朝、アメリカ公使ライヴスの訪問を受け、共和制になればフランスのこれまでの40年の努力が無駄になると忠告されたのだった。

 そして31日の午後に、オルレアン公がパリ市庁舎に赴いてラファイエットとの会談が実現する。その場では、同日の早い午後に議員90人が署名した声明(混乱から脱するための法整備を早急に行なうこと、オルレアン公を国王代理とすること、憲章を順守することなど)が読み上げられた。その会談後、ふたりはバルコニーに出て、市庁舎広場に集まる人々の前に姿を現した。市民の歓呼のなか、ふたりは抱き合い、抱擁を交わす。これがシャトーブリアンのいう「共和派のキス」baiser républicain である。この抱擁によって、オルレアン公は、ラファイエットの、つまり共和派のお墨付きをもらい、国王への道筋をつけることができたのである。

市庁舎バルコニーでの抱擁
ところが、会談後、共和派の人たちは、オルレアン公から進歩的な政策の明確な言質をとっていないことを不満にとして、ラファイエットを責めた。そこで翌日ラファイエットはパレ・ロワイヤルに赴き、再度話し合いをする。そのなかで、本来なら採用すべきはアメリカの憲法だが、現状においては、国民に支持された国王のもとで共和主義的な制度を整備していくのがふさわしい、と いうラファイエットのことばに、オルレアン公が「わたしもそのように理解している」と答えたという。少なくともラファイエットはそのような言葉のやりとり があったとしている。文書のかたちでは残っていないが、これが「パリ市庁舎での将来構想」である。ルイ=フィリップを始めとして政府系の人たちによれば、そのような「将来構想」は存在しないという。「共和派のキス」に表される市庁舎バルコニーでの儀式がその「構想」そのものであると主張する者もいれば、「憲章」こそがそれだと解釈する者もいた。

 国王自身、のちの1832年6月6日に、ラフィット、オディロン・バロ、共和派のアラゴーとの会談のなかで次のように明言している。「市庁舎での将来構想のことがよく話題に上るが、それは卑劣なでたらめである」。32年6月1日に死んだラマルク将軍の葬儀において「約束が公式に受け入れられたのに、卑劣にもそのあと忘れられた」などという者がいたのには憤りを覚える。国民が求めたのは憲章であった。そもそも「わたしはなにも約束する権利は持っていなかったし、事実なにも約束はしていない」。

 しかし、ラファイエットや共和派の人々は、「市庁舎での将来構想」という約束は、「公式に受け入れられたのに、卑劣にもそのあと忘れられた」と考え、しだいに保守化していく国王ルイ=フィリップの姿勢を革命にたいする裏切りとして非難し続けたのである。

(この項続く)