グランヴィル「ワルシャワの秩序は保たれている」 |
また一方、外交も反対勢力の批判の的となった。国内の強硬姿勢とは打って変わって、外交面で政府がことなかれ平和主義をとったことによる。1830年ころのヨーロッパには、ナポレオン戦争後に成立したウィーン体制が維持されていた。ロシア、オーストリア、プロイセン、イギリスの列強はその勢力均衡のうえで平和を保ち、結束して自由主義的運動、国民運動を抑圧した。この体制は1848年の2月革命まで続き、よかれ悪しかれヨーロッパの長期的安定に貢献した。そうしたなかで、1830年にフランスで7月革命が起きた時、各国は大革命のときと同じような混乱を懸念したが、ルイ=フィリップ政府は、国際的な孤立を恐れて、ウィーン体制に恭順する姿勢を示した。
ところでポーランドでは、7月革命に呼応して11月蜂起が起きる。ロシア帝国からの独立を目指す反乱が起きたのである。この報を聞いたフランスの共和派はポーランド支援を国に訴えたが、政府はその要求に耳を貸そうとはしなかった。各国のナショナリズム運動を支援することはフランス革命以来の伝統だった。王制下で自由を抑圧されている民衆をその軛から解放することこそ、革命の理念に沿った行動だからだ。大革命に続いてナポレオンがいつ果てることのない対外戦争に打って出たのは、美名に隠れた侵略であり領土拡張であったとしても、諸国民の解放という理念からして当然のことだった。ヨーロッパを支配する列強がフランスを恐れていたのはまさにそのことだったのだ。
大革命以来19世紀をつうじて、フランスに革命が起きるとそれはヨーロッパ各地に飛び火した。7月革命につづいて、30年8月にベルギーで独立を求める蜂起が起こり、ドイツのザクセン・ヘッセン・ハノーヴァーでは革命運動が勃発したし、イタリアでも各地でカルボナリが革命を目指す動きがあった。またフランスの2月革命を受けて、ドイツやオーストリアで3月革命が起き、ウィーン体制を事実上崩壊させたが、イタリアでもポーランドでも体制を覆そうとする革命運動が活発化した。さらに1870年の普仏戦争後、第二帝政崩壊ののちにパリ・コミューンが成立したときには、再びヨーロッパを揺るがす悪夢が再来するのではないかとヨーロッパの列強は強い危機感を持ったのである。
しかしルイ=フィリップの政府は列強諸国に与して、ポーランドなどの国民運動を助けることはしなかった。共和派は、このようなことなかれ平和主義をとる自国の政府を「どんな犠牲を払っても平和を」望む政府として揶揄しつつ、政府のポーランド介入を強く要求した。また王制を支持するシャトーブリアンも、国の矜持を忘れたかに見える7月王政政府を「祖国の服従の誇りを、敗北の凱歌を、屈辱の栄光をぶるぶると震えながら歌う平身低頭の政府」(Chenot) と一蹴している。
そうした背景のなかで、グランヴィルはオーベール社から、一枚ものの諷刺画「ワルシャワの秩序は保たれている」(1831年9月20日)、5日後にその対となる「パリの秩序もまた保たれている」(9月25日)を発表した。Renonciat 91。この諷刺画は、1830年にポーランドで起きた11月蜂起のことを描いている。当時ポーランドは、ウィーン会議の結果生まれた、ロシア皇帝が国王を兼ねる「ポーランド王国」(別名「会議王国」)だった。しかし、1830年フランスで起きた7月革命、ベルギーで起きた独立運動をきっかけとして、ポーランドの情勢も大きく揺れた。同年11月に急進派の秘密結社「愛国協会」が反乱の狼煙をあげると蜂起は意外に大きな広がりを持つ。この急進派に牽引されて、ポーランド国会は1831年1月にニコライ1世の廃位を決議し、事実上ロシアへの宣戦布告を行った。そして10ヵ月近くに及ぶ戦闘の結果、31年9月8日、ワルシャワはロシア軍によって制圧されてしまう。蜂起の失敗によって、1万人に及ぶポーランド人がフランスを中心とした西欧に亡命したという。
ポーランド軍の敗北の理由として、双方の軍事力の決定的な違い、そして、国内の急進派とチャルトルィスキらの穏健派が対立してしまい、一丸となった抵抗ができなかったこと、国際的にポーランドを救援する国がなかったことがあげられる。ヨーロッパ諸国では、ドイツでもフランスでも国民のあいだではポーランド支援の機運が高まっていた。フランスでは、カジミール・ドラヴィーニュがフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」(マルセイユの女)」を下敷きにした「ワルシャワの女」(1831年)を発表し、民衆たちのあいだで熱狂的に受け入れられる。しかし、ルイ=フィリップの政府はすでに述べたような平和主義のため、また同じ時期、膝元のベルギーで起きた独立問題の対処に忙殺され、ポーランドに支援を送ることはしなかった。
フランスでは9月16日に外務大臣のセバスティアーニが議会でポーランド情勢について報告をした。そのなかで、ロシア軍がワルシャワを掌握し、ポーランド軍が首都から35キロまで後退した結果、「ワルシャワの平穏は保たれている」と述べた。グランヴィルの「ワルシャワの秩序は保たれている」はこの外務大臣のことばをもじっている。「秩序」とは名ばかりのことで、現実のワルシャワは酸鼻を極める状況だと諷刺画は言っている。版画では、中央にコザック兵が血の海に立って平然とパイプをふかしている。そのまわりには、ポーランド人の無残な死体や斬首された頭がころがり、また後景にはさらし首になったポーランド人やギロチンを準備するロシア兵が描かれている。戦争や国際紛争が起きると必ず事実を隠蔽するかのように「町は比較的平穏な状態にある」ということばがいつでも使われるものだが、ここでグランヴィルが暴いているのはセバスティアーニ外相の言う「平穏」の実態である。
グランヴィル「パリの秩序も保たれている」 |
をふたたびオーベール商会から発表し、大きな評判を呼んだ。版画では「ワルシャワの秩序は保たれている」とほとんど同じ構図でパリの様子を描いている。中央に大きく描かれた警官が、デモ隊の男をサーベルで刺殺し、その血を拭っているところである。ポーランドでコザック兵が残虐非道なことをしているのと同じく、パリでも警察が、反対派(ここではおそらくポーランド支援を要求する市民)を殺戮することでかろうじて秩序を保っている、というのだ。しかもここで問題となっているのは単にワルシャワとパリの類似だけではない。対外的な事なかれ平和主義と、国内的な強硬路線が、どちらも自由を抑圧し、流血の惨事を引き起こしている、とルイ=フィリップの政策の根源的なあやまちを糾弾している。
グランヴィル「なんて嫌な虫どもだ!」 |
この2枚の諷刺画に怒った当局は、突然グランヴィルの自宅の家宅捜索に押しかける。このときは友人のファランパン(元法学部の学生で、のちの『イリュストラシオン』の取締役)が、六法全書とピストルを振りかざして彼らの侵入をかろうじて阻止したのだった。この蛮行にグランヴィルも黙ってはいなかった。彼はセーヌ県知事に告訴状を提出したあと、10月に不法な家宅捜索を皮肉る諷刺画を描いている。それが「なんて嫌な虫どもだ!」である。絵を描いているグランヴィルの家に、ハエの格好をした警官がつぎつぎにやって来ては仕事の邪魔をする。そのなかには小さくルイ=フィリップの顔をした警官もいて、この捜索が国家の指示だったことを匂わせている。この事件がきっかけとなって、妻のアンリエットが政治諷刺という仕事を嫌がるようになり、その結果、グランヴィルは『カリカチュール』での活動を制限していくようになったとも言われている。